文/中国の大法弟子 惜縁
【明慧日本2021年6月2日】もし誰かに「人生で最も貴重で幸せに思うことは何ですか?」と聞かれると、私は「法輪大法を修煉し、真・善・忍に同化していくことです!」と答えます。もし誰かに「人生において最も貴重で幸せな瞬間はいつですか?」と聞かれれば、私はきっとこう答えます。「大法の師父に出会った瞬間です!」
1998年12月30日が私にとって最も幸せな瞬間です。私は師父にお会いしました!
私は軍人です。その日は風が穏やかに吹く晴れた日でした。いつもと同じく、私は朝5時から軍校の体育館で皆と一緒に五式の功法を煉り、7時30分に授業がある生徒たちを校舎内の教室に送ってから上の階に行き、他の同修と学法を始めました。7時50分頃、母(同修)が自宅から学校に駆けつけ、(当時の私はまだ携帯電話を持っていなかった)「同修から電話があった。緊急に連絡してほしい」と言いました。同修に折り返しの電話をかけると、「師父が来られた! 早く来て!」と興奮した声が電話口から聞こえてきました。
「え! 師父が来られた! すぐ行く!」と、電話を置いてから、私は5階から1階に走っていき、110段の階段とキャンパスを通り抜けて校門に着きました。私たちの軍事学校は南山の麓の郊外にあり、キャンパスの入り口付近は自動車が入れない閉鎖的な管理をしています。その日、私が入口まで走って行ったとき、ちょうど一台のタクシーが止まっていて、お客さんが下車していました(まるで私を待っていたかのようでした)。私はそのタクシーに乗り、すぐに同修の家に着きました。
同修の家の2階にあるリビングでは、慈悲で偉大な師父がソファに座られ、周りには70~80人ほどの地元の輔導員(以下、世話人)が座っていて、師父の説法に耳を傾けていました。部屋からベランダまで、学習者が溢れていました。部屋に入ると、私はまず慈悲で偉大なる師父に敬礼しました。その後、同修の手招きに従い、私はコーヒーテーブルだけを挟む師父の真向かいに座り、師父の説法を聞き始めました。
当時、師父に会えてあまりにも興奮していた私はずっと師父を見つめ、多くの同修が涙を流しているのを見ましたが、師父のお話の内容はあまり覚えていませんでした。一番印象的だったのは、師父が左手の人差し指の指先を上に向け、右手の手のひらを左手の人差し指の上方部に置き、「天」や別空間に関する法を説かれたことです。私自身は何も見えず、普段、他空間が見える同修からよく不思議な話を耳にしていましたが、何も見えないため、これらの言葉には概念的なイメージしか持っていませんでした。しかし、その瞬間、私は別空間の存在や天体の洪大さ、宇宙の厖大さ、法輪大法の奥深さを実感しました。私の世界観、人生観、価値観は根本から変わりました。
法を説かれた後、師父は「皆さん、何か質問はありますか?」と聞かれました。正直なところ、普段の修煉の中で、私は多くの疑問を抱いており、同修と交流を交わすのもよくあることですが、その日はなぜか、師父の前にいた私は頭が真っ白でした。どんな質問をしようかとずっと考えていたため、ほかの同修たちがどんな質問をしたかよく聞いていませんでした。一瞬、室内が静かになり、全員は一斉に目線を私に向けました。私は勇気を出して、しどろもどろで師父にこう質問しました。大体の意味は、「軍事学校で務めている私は、毎日の点呼や講義の際に大法の内容を引用することが多くあります。しかし、これは師父のお言葉だとは言えません。このようなやり方は大丈夫でしょうか?」でした。師父は自分の後ろ(私たちの軍事学校は師父の指の方向にあり、師父はすべてを知っておられます)を指差されて、「どんな方法であれ、人をプラスの方向、良い方向に導き教育することは良いことだ」という趣旨のことを言われました。
午前7時から午後2時過ぎまで、師父は一度も休まれず、一口の水も飲まれず説法され続けました。世話人の同修から師父が午後に別の都市に行かれると聞き、皆は名残惜しそうに誰もが師父を駅まで見送ろうとしていました。そこで、世話人はその場にいた(軍服を着ていない軍人を除く)すべての軍人に、師父を高速道路の入口まで見送るように決めました。私の数えたところでは、陸海空軍を含む二十数人の軍人の中で、(海軍に所属している私を含めて)軍服を着た軍人は十数人いました。
師父が乗られるのはバンだと聞き、私は師父の近くに座ろうとして、車の中や外で一生懸命に師父の姿を探しました。車の後部に何人かが集まっているのを見て、師父はきっと真ん中にいらっしゃるだろうと思って、ずっとそっちを見ていても師父が見えませんでした。仕方なく、私は2列目の空いている席に座り、目線を相変わらず後ろに向けていました。その時、軍服に着替えて最後に乗車してきた海軍少佐に席がないのを見て、私は彼女に座るスペースを開けようとして、左側に詰めました。その時、世話人は私に「師父に十分なスペースを空けて!」と念を押してくれました。振り返って見てみると、私は師父のすぐ隣に座っていて、同修に席を譲ろうとして師父を押していました。師父は車窓の方にさらに身を寄せて「大丈夫です。座って!」と言われました。その時、私は初めて皆が後ろに集中して座っているのは、師父にゆっくり休まれるスペースを空けていたことに気づくと同時に利己的な自分の言動に恥ずかしさを覚え、自分と同修たちとの間の差が見えました。
不思議なもので、普段は夢の中でも師父に会いたがる私は、いざ本当に師父と一緒にいると、身体が固まってしまい、師父を見る勇気さえありませんでした。その時、自分の思想業力やさまざまな執着心が次々と出てきて、「どうしょう? これほど多くの私の執着心が全部師父の前に露呈されているのではないか!」と思いました。当時、私が着ていた軍服の階級章にいくつかの穴があり、人にだらしない印象を与えるので、師父に見られたらどうしようととても不安でした。道中、師父はずっと笑顔で世話人と会話を交わされていました。
あまりにも緊張していたせいで、師父と同修の会話内容を一言も覚えておらず、車を降りてから師父にどう敬礼しようかとばかり考えていました。約20分後、車は高速道路の入口に着きました。降車後、師父は皆と握手されて別れを告げられました。師父と握手する機会がないかもしれないと不安に思った私は、師父が同修と握手される度にその同修の後ろに回って待ち、師父が振り向いて別の同修と握手されると、私はまたもその同修の後ろに移動して待ちました。師父はまるで私の考えを知っておられるかのように、すべての同修と握手を済まされても、結局私とは握手されませんでした。師父が車に乗られようとしたとき、私は思わず「師父!」と叫んでしまいました。師父は振り向かれて、「そうか。もう1人いる」とおっしゃいました。私は師父に近づき、師父の手をしっかりと握り、胸に熱いものがこみ上げてきて、「これが私の人生での最も幸せで、最も忘れられない、最も貴重な瞬間だ」と心から感じました。師父は私の手を数回軽く叩かれてから、「大切にしなさい!」とおっしゃられたのを覚えています。(嬉しさと緊張ではっきり聞こえませんでしたが、後で思い出してみると、師父は私にそう言われたような気がします)
師父が車に乗られた後、私たち軍人一同はきれいに並んで、慈愛で偉大なる師父に敬礼しました。師父の車が見えなくなってから、私たちはやっと高速道路の入口を離れました。車に乗られる師父の後ろ姿を見ながら、私は心の底から「師父! 私を置いていかないでください! 師父について家に帰りたいです!」と叫んでいました。
あっという間に22年が経ち、私も26年の修煉の道を歩んできました。修煉の過程で、私は刻々と師父による励ましと啓示を感じています。そして、取り残されるのではなく、師父について家に帰りたければ、時々刻々師父と大法の要求に従って着実に自分を修め、三つのことをしっかり行い、真・善・忍に同化し、自分を大切にし、勇猛邁進するしかないことを深く会得しました。修煉にはいかなる近道もありません。
慈悲で偉大なる師父に感謝します!
同修たちの支持および助けに感謝します!