【明慧日本2021年6月4日】
尊敬たる師父 こんにちは!
各位の同修 こんにちは!
私はニューヨーク中城学校ダンス部の学生です。本日、最近の体験を皆さんと交流したいと思います。不適切なところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
以前、いつも母やお婆さんとの間で、心性の摩擦が起こった時、修煉者の基準に基づいて自分を律することができませんでした。彼女たちに自分の考えと合わないことや、思っている事と違うことを言われると、必ず言い返していました。当時は何とも思わなかったのですが、しかし、その後じっくりとその問題点を反省する時、心性を守れなかったことを後悔しました。師父が説かれた法のように「しかし、人と人とがいがみ合う時の心は、最も制御しにくいものです」 [1]。その時、心は衝撃を受けましたが、このように対処できず、いつも常人のやり方で解決しようとしていました。しかし常人のやり方で対処すると殆ど良い結果にならず、この方面でなかなか突破できませんでした。
私は、先月の連休中に実家に帰りました。今回の帰省中もまたこの問題に直面しました。まず、母とちょっとした衝突が始まりました。当時、あることについて討論しており、最後にはお互いに不愉快になりましたが、私は諦めずに更にこの討論を続けたいと思いました。母の話しが終わり、すぐに反発しようとしましたが、頭の中で突然、師父の法が思い浮かびました。「煉功者としては、殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、常に高い基準で自分を律しなければなりません。そこで、彼は「煉功者は常人と違って、広い心をもたなければならない」という先生の教えを思い出し、その二人と口論をしませんでした。しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません。というわけで、彼はやはり気になってたまらず、どうしても後ろを振り向いて、その二人の様子を覗いてしまうかも知れません」 [1]。この法は、私にはっきりと響いて来ました。一瞬、私はどのように母に反論しようかと考えましたが、この法を思い出した瞬間に、親に対する悪い失礼な考えを一瞬で抑えることができ、瞬間的に、私は彼女との言い争いを止め、今回はやっと我慢することが出来ました。
もう一回は、お婆さんとのことです。当時、お婆さんが私の叔母さん(中国在住の常人)と電話をしており、その時はちょうど中国のお正月で、叔父さんもお婆さんに新年の挨拶をしていました。お婆さんは叔父さんに感謝の言葉を述べ、叔父さんが良い人だと褒めていました。私は部屋でこの話を聞いて良い気持ちになりませんでした。その前に、私のお爺さんは重病の関門に直面していて、お婆さんしかそばにいませんでした。私たちは海外にいて中国に戻れませんでした。お婆さんがお爺さんに師父の法を聞かせようとすると、叔父さんに厳しく止められ、更に警察を呼ぶと脅かされました。
このような様々な原因で、私は叔父さん一家に良い印象を持っていませんでした。彼らが電話をしている時、最初は何も考えませんでしたが、お婆さんが彼に感謝の言葉を言っている時、抑えきれずに大きい声で、お婆さんに「彼らは良くないです」等と叫びました。お婆さんは何も言いませんでした。しばらくして、お婆さんは「叔父さんたちは私たちを助けたことがあるので、感謝しなければいけません」と言いました。
お婆さんが言った後、私はまた反論しようと思いましたが「修煉者は年長者にそんなことを言ってはいけないし、自分がその時期に国内にはおらず、私が知っている限られたことを押し付けてはいけない、それは自分で業を作っているのではありませんか」、「一つ一つの難関に、修煉して向上していくか堕ちていくかの問題がかかっています。ただでさえ難しいのに、さらに人為的に難を作ってしまえば、どうやって乗り越えていくのでしょうか?」 [1]を思い出しました。
私がこんなに大きい声でお婆さんに話していることは良くないことであり、これは魔性であることを悟りました。私はすぐに弁解をやめて、口を修め、業を作ってはいけません。師父は次のように説かれました。「事物の因縁関係、つまりそのことはいったい良いことなのか悪いことなのか、そこにどういう因縁関係があるのかを見通すことができないからです。そんなに高い次元に達していない一般の修煉者は、こういうものを見抜くことができないので、見た目では良いことでも、かかわると悪いことになるかも知れないのを恐れるのです。ですからできるかぎり無為を守り、何もしません。こうして再び業を造ることを避けるのです。業を造れば業を滅しなければならないし、苦しみを嘗めなければなりません」 [1]
私が喋らなくなってからは、お婆さんに大きな声で話したので怒られるかと思いましたが、お婆さんは怒りませんでした。
この二つのことから私は弁解する心、自我などの私心が深く隠されていたことに気づきました。これらの心は修煉者の言行や思想に影響し、これらに邪魔され、隙に付け入られると、自分の行動が如何に法の要求に適していないのかを自覚していませんでした。しかし、いつも法に溶け込み、何かをする時あるいは誰かと話をする時、まず自分の言行は法に符合しているか、師父の言われた通りにしているかを考え、自分の思い通りに言うのではなく、無制限に自分の欲望と執着心を放任してはいけません。
私たちは師父の弟子であり、師父自ら私たちを地獄の底から掬い上げ、一世一世の様々な恨みを解消して下さり、大法弟子になるという千年に一度、万年に一度の機会を与えて下さったのです。何百万年もの間、私たちは輪廻転生で苦しみ、今回の大法が伝えられ、済度することを待っています。特に私たちのような青年大法弟子が、自分の言行を正すべきで、私たち一人一人のために師父が尽力して下さったのです。
考えてみると自分は全然できておらず、法を多く勉強した時には、少し精進したことがありますが、しばらくすると怠けてしまいます。今まで良くできていないこと、私(し)のための行為及び旧勢力の按排をあっさりと受け止めたことを後悔しています。実際、師父は全てを辛そうに見ておられます。私が行ったことはとても不十分で、師父が按排して下さった道をしっかり歩まなければいけないと決意しました。そして絶えず学法、煉功をして主意識を強め、良くない行いや思想を正し、旧勢力の按排を全て否定し、自分を厳しく律し、師父が求められたことに応え、師父や大法を断固として信じていきます。
師父はこのように教えて下さいました。「法が基礎であり、大法弟子の根本であり、すべての保障であり、人から神に向かう道であるため」 [2]
最後に、師父の法に基づき本日の交流を終わらせたいと思います。「しかし、皆さんはこの最も偉大な神の道で、回り道を少なくし、自らの将来に悔いを残さず、次元の距離を開くことなく、これこそ私と皆さん、そして皆さんに期待を託している衆生の願いなのです」 [3]
以上、不適切なところがあれば慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1]李洪志師父の著作『轉法輪』
[2]李洪志師父の著作『精進要旨三』「オーストラリア法会へ」
[3] 李洪志師父の著作『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」
(2021年ニューヨーク州オレンジ郡法輪大法の修煉体験交流会発表原稿)