「抜歯」からの啓示
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年6月14日】私は修煉を始めたばかりの時、同修に「補導員」(世話人のこと)になるよう推薦されました。ある日、私は同修を集めて、師父の講法ビデオを見ていました。師父が「抜歯」について法を説かれている時、一部の同修は笑いながら、喋っていました。この状況を見て、私は怒って、「師父は説法をされています。あなた達は物語として聞いていて、これでいいのですか? 師父は法理を説かれているのではないでしょうか? 修煉は根本的な所から執着心を取り除けば、どんな関に遭っても乗り越えられるという法理を私たちに教えてくださっているのではないでしょうか? もし人間の方法を重視して、根本的に自分の心を解決しなければ、真に変わることはないでしょう」と言いました。同修達は私の話を聞いて、静かになって師父の講法ビデオを真剣に見ました。その日、ある同修の娘が大法の修煉を始めました。

 今日の学法で、私はまた「抜歯」についての法を見て、この法の更により深い次元の意味を悟りました。大法弟子の法を正す修煉と旧勢力が大法弟子に強制的に加えたいわゆる修煉の区別について、師父が弟子に啓示してくださいました。

 私の今の理解として、師父が大法弟子に按排してくださった法を正す修煉は、その人が人に歯を抜くことと同じように、根本的に問題を解決することなのです。根本的に問題を解決すれば、表面上の全ての問題が既に解決され、その時、わたし達は単純に世間の理に従って行動すればよいので、全然難しくないのです。内から外に向かって問題を解決することは、問題を根本から徹底的に解決することです。その人は人の歯を抜くことが目的でなく、目的は人にその「水薬」の力を人に見せて、その水薬を売るのが目的です。

 大法弟子の法を正す修煉も同じです。修煉で問題があったら、内に向けて問題の根本的な原因を探して、根本の原因が見つかったら、法できれいにしたら、表面上に現われた全ての問題の虚像が消えます。その時、わたしたちは正念を持って正しく行えば、問題が自然に解決でき、三つのことが容易に行えます。しかし、大法弟子が行ったすべての目的は自分のためではなく、大法の威徳を実証することのためであり、衆生を救い済度するためなので、その中に「私」と「我」がありません。

 旧宇宙の生命と旧勢力が大法弟子に強制的に加えたいわゆる修煉は、西洋医学の「抜歯」と同じように、外在的な強制手段で大法弟子の肉体を迫害して、大法弟子にいわゆる修煉の中の魔難を按排し、魔難を通して、外から内に向けて大法弟子の執着を解決することです。その目的は、法を実証することが優先ではなく、大法弟子のいわゆる修煉の向上が優先です。このやり方の中に「私」と「我」が貫かれています。

 迫害が始まったばかりの時、ある同修が、自分が刑務所で体験したことを私と交流してくれました。その交流は私の心に響きました。

 ある日、彼女は刑務所の中で煉功をしようとすると、その部屋のリーダーは彼女に、「あなたがここで煉功することを許さない。煉功すると、私はあなたを通報するよ」と言いました。同修は、少し考えて、煉功をやめて、自分に向けて探しました。「私にどんな執着心があったため、部屋の主が私に煉功させないのか? こうすれば、この部屋のリーダーは大法に犯罪を犯すことになるでしょう」と考え、自分の執着を見つけました。この同修は、部屋のリーダーのことがずっと気に入らないという心があり、この心を取り除きました。直後に、部屋のリーダーの態度はすぐ変わって、「あなたはここで煉功しなさい、誰も通報しないように」と他の受刑者にも言いました。同修は煉功し始めました。その部屋のリーダーは非常に真剣に煉功する同修を見て、「あなたはこんなに綺麗だったことに、初めて気づきました。この功法は素晴らしいものですね」と言いました。

 ここで、同修が内に向けて探す目的は、自分の向上のためでなく、魔難を乗り越えるためでもなく、衆生を救い済度するためであり、大法を実証するためだったのです。同修は自分の執着を見つけたら、同修に加えた迫害が瞬間的に解決し、同時に大法を実証して衆生を救い済度しました。

 もし、私たちは全てこのように行えば、迫害は続きますか? わたし達はずっと法を実証し、衆生を救い済度すれば、これは真に大法弟子が成就することで、法を実証する中で、衆生を救い済度する中で大法弟子は成就しています。

 現在、一部の同修は問題があった時、大法を実証することと衆生を救い済度することを優先的に考慮することなく、基本的に「自我」の向上、或いは魔難から逃げる、或いは問題を解決することを巡って、内に向けて探します。実は「私」と「我」から脱出しないと、旧宇宙の法理の中から脱出することができず、旧勢力が按排したことの中で修煉しています。

 もちろん、修煉は玉ねぎの皮を剥くことと同じで、一層一層と人の執着を取り除きます。だから、自分の向上のため内に向けて探すことには間違いありません。しかし、法は異なる次元に異なる基準があります。今、法を正す進捗はすでに旧宇宙の最後、最も根本なところに到達していて、大法弟子の修煉も最後の殻を破る段階になりました。その殻は「私」と「我」に基づいて構成したものです。

 ここまで書くと、自分の以前の体験を思い出しました。約10年前、私は他地区から長距離バスに乗って地元に帰った時、バスの窓から外を見て、野原、大地、空すべて静かで、私の思想も徐々に静かになりました。この時、師父の法「天地はすべて法が成し」[1] が頭の中に浮かびました。その瞬間、一つの法理を突然理解しました。「天地や万事万物は大法が作り上げたので、私は自分の考えや、自分の認識、自分が欲しいものに執着する必要があるでしょうか? 私は自分の全てを放下し、大法で私の全てを熔煉させましょう」

 その瞬間、私は自分の丹田の最深部に、津波のような巨大なエネルギーが湧いてきたと感じました。私は自分の気持ちを抑えられなくなり、涙が止まらず湧いてきました。その時、自分の丹田の所に、真の私は7、8歳の男の子のようで、一生懸命外に走っていて、体は薄い黒い透明なものに包まれているのを見ました。私は自分が長い間、塵芥の中にいて、そこから抜け出さなくてはならないと感じました。バスから降りると、世界が変わったと気づき、すべての物質の中に「真・善・忍」があると感じました。その薄い黒い透明なものは「私」と「我」であることに気づきました。

 もし私たちは今、自分の向上のために、内に向けて探し、自分を修めるなら、根本的な向上ができません。自分を向上するためという考えは、真の私を包む最後の殻で、その「私」と「我」が発した思想であり、私たちの本性から発することではありません。

 私たちの「真我」は大法の一粒子であり、大法を実証することと衆生を救い済度するための生命であり、師父の要求に応える生命であり、「自らのため、私のため」という考えがないはずです。もし「自らのため、私のため」であれば、その時、「私」と「我」という殻が修煉することになり、つまり私たちの「真我」の修煉を妨害し、「真我」が修煉することではないのです。その最後の殻は、私たちが大法の基準に達しないので、その殻があるため、私たちは旧宇宙の最後のすべてに抑えられ、上に向上できなくなり、大法弟子の基準に達することができなくなるのです。

 だから、「私」と「我」という殻は、今日の大法弟子の修煉と人を救い済度することへの最大の妨害となります。それを取り除くことによって、師父と新宇宙の円満成就の基準に達することができます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作『洪吟三』「機縁は一瞬」

 【編集者注:この文章は筆者個人の今の認識で、同修と交流して、「比して学び、比して修す」】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/27/423821.html)
 
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