終了の時間をどれくらい師父に待たせたいのですか?
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年5月6日】正法は師父のご安排によっていつでも終わります。なぜ今日まで、いや明日、来年……まで何度も延期されるのでしょうか?

 1997年7月3日、師父は『時間との対話』という経文の中で、時間の神は終わりを示唆していると説かれています。

 「神: わたしが思うに、神になれない人にこれ以上、時間を与える必要はなく、実はその人は人間でしかありません」。[1]
 当時、師父はどのようにお答えになったでしょうか?

 「師: わたしは、やはりもう少し待ってみたいと思います。人類を破壊するさらにミクロ的な物質をきれいに片づけてから、その後、どうなるかを見て決めたいと思うのです。彼らはなんといっても法を得に来ているのです」。[1]
 この待ち時間は24年が過ぎ、師父は精進していない弟子をずっと待っておられるのです。

 師父の説法から分かるように、大法弟子の中で修めない者は法が人間を正した後に二度目の修煉の機会はありません。迫害の中で逆らった者は命の本質が持ち出された後、彼らの宇宙は空っぽになり、彼らに無限の希望を託している衆生は全部なくなります。 あまり精進していない者は、彼らの宇宙は不完全になり、計り知れない生命が失われてしまいます。元の次元まで修めていない者は現在の次元以上の宇宙が解体され、元の親族、無数の佛、道、神も一緒に消えてしまいます。三つのことに精進し、実に修めている弟子だけが、返っていったら、大円満です。彼らは自分を選び、自分を育成し、自分を見守り、最終的に自分を成就させた偉大な創世主に背いていません。 自分の宇宙も、天体も、当初誓いを立てた天界も、一層一層降りてきている間に縁を結んだ生命も、自分に希望を託した上下の生命も、すべて救われました。さらに多くの他の生命も救われました。

 今日、私たちは自分に「1997年が終わったら、私はどこにいるのでしょうか、もし2007年が終わったら、私はどこにいるのでしょうか、2012年が終わったら、私はどこにいるのでしょう? 2019年に終わるなら、私はどこにいるのでしょうか」と問いてみてください。

 終わりと言えば私たちはしばしば唯我の角度から、自分は何に執着しているのか、なぜ執着しているのか、どのようにしたら執着を取り除けるか考えないのですか? また、「終わりかどうかを考える必要はない」という同修もいました。 同修よ、どうしてそれを考えないでいられるでしょうか? 私たちの責任は重いですよ。

 正法は何のためです? 私たちの状態は新宇宙とどういう関係がありますか、師父は末劫時期の巨大な業力を一身にお受けになって、終わる日を再三お延ばしになり、再三お待ちになりました。誰をお待ちになっているのでしょうか。新宇宙は何を求めているのでしょうか、正法時期の弟子は何を考え、何を行い、どのように行い、どんな基準に達すべきでしょうか?

 神韻公演の中に、書院の弟子についての舞台劇があります。パチンコ(ゴム銃)を持って、時間を無駄に過ごしている儒生はふざけたり、寝たりして、時々ハチの巣を突いていました。創世主の慈悲は洪大で、彼が奮起して追いかける機会をお与えになり、彼が重責を担う人になることをお祈りなっています。師父の弟子に対する慈悲は計り知れません。逆に言えば、あの無駄な時間を過ごしている儒生には、私たちの影があるのではないのでしょうか?

 師父は正法を旧宇宙が崩壊される最後の瞬間まで延ばしても、正法には最終的に終わる日があります。

 私は自分に対して、そして同修にも、毎日を最後の日にして心性を高め、人を救い済度しましょうと言っています。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『精進要旨』「時間との対話」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/9/421862.html)
 
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