欲求を断って大道へ帰す
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年9月27日】修煉する前の私は、超能力に惹かれて気功を学び始め、何種類もの気功を学びましたが、何の功能も出てきませんでした。法輪大法を学んで初めて、功能や功力というものは高い次元のもので求めてはいけないことだと知りました。

 師父は、『轉法輪』で「外に向かって探してはなりません。大勢の人は今日はこれを、明日はあれをと外に求め、しかも執着心を抱いて功能を求めるなど、さまざまな目的を持っています。気功師になって、病気治療で大金持ちになりたいという人さえいます!」と、説かれました。私は当時、まさに師父がおっしゃったそのようなことを考えていたのでした。『轉法輪』のこのところを読むと、とても恥ずかしく思いました。しかし、それからはあの強い執着心が軽くなりました。

 最近、学法して多くのことがわかりました。自分の根本的な執着を発見し、それを断ち切りました。最初はむなしく感じていましたが、次第に執着がない気楽さと自由を感じるようになりました。

 師父は、『法輪功』で「法輪功は宇宙の原理に従って演化してきたものなので、宇宙に存在する功能は法輪功にすべて備わっており、煉功者がいかに修煉するかにかかっています。何らかの功能を身につけたいと思うことは、間違っているとは言えません。しかし、過度に追求しすぎると、普通の考え方ではなくなり、良くない結果を招きかねません。低い次元で功能を得てもあまり用いるところがありません。しょせんそれを披露し、常人の前で腕をひけらかして、常人の中の強者になりたがるだけです。もしそうならば、まさに心性が高くないということですので、当然功能を与えてあげるわけにはいきません」と説かれました。

 この一節を学んだ後、私はふと、「徹底的に手放せなかった功能に対する追求心をまだ持っている」。そして「未だに、私の心をかき乱している」と感じました。というのも、明慧ネットで功能を持つ同修が書いた文章を読んでいると、私は羨ましい気持ちになるからです。「この羨望は何なのだろう? 人は持っているのに自分は持っていない」という喪失感を感じており、つまり、私の心はまだ功能を持ちたいという願望があるのです。羨望の背景には顕示心があり、欲と求める心を持っている結果だと思いました。

 求めることとは何でしょうか? 深く考えてみると、求めることとは、人が中道から逸脱し、迷いの中で下へ堕落するか、あるいは目覚めた後に上へ探求するかの現れだと思うのです。

 人はなぜ道を踏み外すのですか? 自分の身の程をわきまえていないこと、違う次元の基準を守れていないこと、そして、外へ求めて欲望を抑えられないことによる結果ではありませんか?

 私たちは、ただ耕すだけで収穫を求めず、弟子としてすべきことをするほか、すべて師父がなさっていることを法から知っています。もし、法を学び、功を煉り、正念を発し、大法の素晴らしさを伝え、大法の資料を配布するなどのことを行う中で、自分の損得を考えず、自我を放下でき、他人のことを優先に考えるのです。トラブルに直面したとき、内に向けて探し、法に則っていない自分の観念や思惟、気性を探し出して、それらを取り除くのです。そして、徐々に違う次元の基準の要求を満たすようになれば、私たちは心性を向上していることになります。

 私が悟ったのは、外へ求めることが執着を生じる根本的な原因だということです。神の目からみると、罪を犯しているでしょう。しかし、私たちは法の展開が見えないので、神も私たちの執着を罪だと思いません。師父がこの道理を私たちに教えてくださいました。ですから、もし私たちがしっかり行わなければ、故意に罪を犯していることになりませんか? 私たちは自分に厳しく要求し、欲望を断ち切り、一刻も早く大道に戻るべきだと思います。

 億人の大法弟子は、みんな師父の手中におり、師父は、弟子の一人一人の根基、悟性、苦難に耐える能力、徳や業力の量、心性の高低などに応じて、頓悟、漸悟など、按排してくださっています。ですから、弟子の間で互いに比べる必要はなく、心が動じる必要もありません。安心して師父に任せ、「自分の現在の状態は、自分にとって最良である」と信じ、これも師父と大法を信じることだと思います。時間を無駄にせず、人を救い、誓約を果たしましょう。

 次元が限られており、不適切なところがあれば、同修のご指摘をお願いします。

 【編集部注:この記事は、修煉の現状についての筆者の個人的な理解であり、同修と切磋琢磨し、 「比して学び、比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/4/464900.html)
 
関連文章