私心を隠さないようにする
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年8月28日】 師父の法を正す過程が進むにつれて、大法弟子たちに残された修煉と衆生を済度するための時間は徐々に減ってきていることを私は理解しています。そのため、ずっと怠ることなく、3つのことすべてに心を込めて行ってきました。しかし、最近になって、自身の心性向上が遅く、更には前に進めないように感じます。一つの執着心を長い間取り除くことができず、時には、ネガティブで悲しい気持ちに襲われることさえあります。内に向けて探し、大雑把に名、利、情に対する表面上の執着を見つけ出し、正念を発してこれを取り除いても効果は微々たるもので、常に執着心の本質を捉え切れていないように感じます。

 ここ数日、私心に関するいくつかの交流文章を聞き、ふと、自分の考えや行動が完全に自己中心的であり、自分が如何に表面上だけを修めていたのかに気づかされました。今から、自分の体験と悟りを書き出し、同修と交流していきたいと思います。

 私の古い家は、昨年からレストランで働く数人の若者たちに貸していました。レストランのオーナーは、従業員が家を乱す場合、直接彼に連絡し、彼が責任を持って私の代わりに対処すると約束しました。

 数日前、古い家の下階の住人から電話があり、彼女の家のキッチンの天井から水がしみ出しており、私の家の水道管が破裂している可能性があるとのことでした。私は水道管修理の専門家を呼び、キッチンを半日調査しましたが、問題は見つかりませんでした。それから、下の部屋の天井を取り外して調べ、水道管には問題がないと結論づけました。彼は再び私の家に戻り、若者たちがキッチンの床に水をいっぱいこぼし、それが階下の部屋に滲み出しているのを発見しました。

 私はこの若者たちに会い、彼らに対して「これはあなたたちが人為的に引き起こしたものです。今回が初めてということもあり、あなたたちのオーナーには告げませんし、修理費用も請求しませんが、再び問題を起こした場合、あなた達のオーナーに連絡します」と告げました。

 十数日経って、階下の隣人がまた電話をかけてきました。「お姉さん、また水が漏れてるよ!」と告げました。突如として私は怒りの炎に燃え上がりました。心の内に「この若者たちは、あまりにもマナーが悪い。一度は許してやったのに、悔い改めることを知らない」という感情のままに、直接オーナーに電話をかけました。しかし、誰も電話に出ませんでした。「なぜ電話に出ない? 直接レストランに行くべきだ。最初からこの若者たちに貸すべきではなかった。マナーがわるすぎる!」と考えれば考えるほど、怒りが募りました。

 しかし、再考してみたところ「あなたは修煉者です。自分を修めずに、逆にあんなに怒り狂うなんて...」と考え直しました。そこで、強く自制し、オーナーのところへ出向くことはしませんでした。しかし、その怒りを時折思い出し、心の中で善悪の戦いが続きました。

 最近「私」を取り除く修煉体験の文章を聞いてようやく悟りました。私はずっと旧宇宙の「私」に囚われており、それを突破することができず、大法に同化することができなかったのです。

 私は自分自身を反省し始めました。この件に関して、私は他人のことを考えず、自身の利益と感情ばかりに囚われていました。お昼の最も忙しい時間帯に、レストランのオーナーに電話をし、彼のことを考えず、自分の感情だけに気を取られていました。部屋を借りている若者たちについて、彼らが問題を引き起こしたために、素養のない人たちと見做していました。しかし、実際には彼らもまだまだ子供であり、レストランの仕事で疲れて、遊び盛りなのは天性なのです。また、階下の隣人に対しても思いやりが足りていませんでした。彼が私に電話をかけてくるたびに、私の言葉遣い自体は優しかったかもしれませんが、内心ではイライラが募っていました。彼女は自ら上の階に上がって問題を解決せずに、いつも私に電話をかけてくることに不満を感じていました。これは果たしてどれほどまでに自己中心的な考えだったことでしょうか。自分の家から他人の家に水が漏れているのに、また相手の方から自分に電話をかけてくる事に対して嫌悪感を抱いていました。

 これらすべては、自分の執着心を取り除こうとせず、他人を自分に合わせて変えてほしいという「私」の心です。 これでは旧勢力の成すことと同じではないのでしょうか?  長い間、修煉してきたにも拘らず、どこへ進んでしまったのでしょう、恐ろしいことです。

 これらの私心を見つけ、修めて取り除き、法の中で自分を正し、無私無我の正念で問題に取り組もうと決意を新たにしました。瞬時に心の中が明るくなり、問題は円満に解決しました。自分の私心を認識した後、実は多くの小さなことにも私の要素が含まれていることに気づきました。

 数日前の夜、学法のために同修が私の家を尋ねて来ましたが、Aさんが一袋の資料を持っており、明日の明け方に私と一緒に配布する予定でした。学法を終えて帰宅時、Bさんは「資料を何冊かもらって帰ります」と言いました。それに対して、Aさんは「資料はそれほど多くないので、少しだけ取ってください」と答えました。私は心の中で「今日の資料は多くないし、明朝、資料を配布する予定の街では資料が不足してしまうため、次回にまた配りにいかなければならない」と考えていました。この考えは、自分の都合が悪いことを避けたいという私の心から来ています。面倒くさい、余計な労力をかけたくないという考えに起因していました。

 自分の考え一つをとってみても、それがいかに利己的なものであり「私」のためのものなのはなぜか? と自問します。大法の資料は師父が法を正し、衆生済度することを手伝うという、これ程までに神聖なことのために、すべての大法弟子に用いられているものであり、そこに私心を持ち込んではいけません。私心を持ったままでは衆生を救う効果があるのでしょうか? そこまで考えると、私はこの私心を解消するために正念を発しました。

 もう一つ、小さな出来事があります。何度かありましたが、朝、家の中の浄水がなくなっていることに気づくと「息子がもうすぐ球技から帰ってくるから、水を汲みに行かせよう。彼を鍛えるのにもちょうどいい」と考えていました。時には息子が汗だくになって帰って来ているにもかかわらず、水を汲みに行かせたこともありました。しかし、これらもまた私心に由来していました。なぜなら、息子は怠け者ではありませんし、彼を鍛えるという言い訳は私の利己的な心ー私心によるものに他ならないのでは有りませんか?「水を汲みに行きたくない、外が暑い、朝食を作らなければならない、同修の交流文章を聞かなければならない、などなどという理由を並べ立ててはいるものの、それらの理由はすべて「私」に関連していることに気付きました。

 修煉中に起きることは、些細なものではありません。自分の息子とはいえ、衆生です。彼を甘やかし過ぎない事と共に、彼のことも考え、もっと自分を捧げなければならないと認識しました。したがって、朝、私は自分で水を汲みに行き、ヘッドフォンを付けて同修の交流文章を聞くようになりました。そして、その時聞いた交流文章も又もや私心を取り除くという内容の文章でした。本当に雲が払われてまた日が見える心境で、心が平穏で穏やかに満たされた感覚が広がりました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/8/17/464245.html)
 
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