他人のために考える
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年1月1日】中共の留置場にいた時、私は常に旧勢力の迫害をどのように否定し、どのように正念を持って留置場から脱出することができるかを考えました。過去の経験に基づくと、生死を放下すればできるはずです。今の私にとっては生死を放下することは難しいことではありません。しかし、何度も自分を見つめ直し、生死を放下したと確認しましたが、それでも今の境地を突破することができず、常に私を妨げる何かがあると感じました。私は師父に「師父、弟子は愚かで、正念はどうやって生まれるのかが分かりません。どうぞお教えください」と助けを求めました。その時、頭の中に「他人のために考える」ことだと、ひらめきました。

 「彼のために考える」なら分かると思い、私は私と一緒に不法連行された同修たちや警察官、そして宇宙の中で私を見つめている無数の生命について考え、どうすれば彼らのためになるのかを一つ一つ考えました。

 私は喜んで師父に「師父、私は正念が何かを知りました。絶対に正念を守ります」と話すと、すぐに心の奥底から「すべて他人のために考えたら、私はどうなるのだろうか?」という言葉が湧き上がりました。その時、私は本当に師父が背後で「私がいる!」と笑っておられるのを感じました。「そうだ! 私には師父がいらっしゃる」と考えると、心配事はすべてなくなりました。

 内に向けて探してみると、以前は生死を放下するたびに、私的な考えが絡んでいました。衆生を救うために生死を放下し、自分のすべてを師父に任せることは、私が今後達成に向けて努力すべきことだと思いました。私を妨げていた要因がやっと打破されました。その要因は、生死よりも放下することが難しい、旧宇宙の自分のために考える「私」という属性でした。

 警察官は法輪功の修煉を諦め中共に洗脳された人を呼び寄せ、私に法輪功の修煉を諦めるよう説得させようとしました。私を説得しにきたその人を見た時、最初に頭に浮かんだ考えは「私が大法を信じる決心が強くないと思っているのか? なぜこのようなことで私を試すのか?」でした。すぐにそれは間違っていると気づき、これは自分のことだけを考えていて、説得しにきた人のことを考えていなかったと思いました。彼もかつて法を得た生命であり、執着心のために大法を放棄してしまったので、それはとても惜しいことだと思いました。師父が彼を私の前に連れてきたのは、私が彼を助け、彼を目覚ませるように手助けをするためだと思うと、彼に対して同情の感情が沸いてきました。

 私は彼を差別せず、彼が理解できる言葉で腹を割って話をしました。その過程は非常に平和でした。私は、法輪功の学習者一人一人をとても大切にしている師父の慈悲を感じました。私たちを監視している警察官たちも黙って話を聞いていました。私は自分が留置場にいることも忘れ、まるで家にいるようでした。私たちは一日中交流しました。彼が去るとき、「あなたの師父への忠誠心を、私は果たせなかった」と感嘆しました。私は彼が自分の過ちに気づいて良かったと思い、嬉しく感じました。師父が私に大法に同化して、無私無我を体現し、先に他者を思いやる機会を与えてくださったことに感謝します。

 その夜、私が留置場を出るときは、以前のように正念を持って出たという喜びや誇示は一切感じず、ただ衆生に対する慈悲と平和で穏やかな気持ちだけがありました。

 これは私個人の少しの経験です。不足などがあれば、どうぞ慈悲で指摘してください。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/12/25/469612.html)
 
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