文/台湾の大法弟子
【明慧日本2023年3月6日】明慧ネットの交流記事で、長年修煉している同修からの「どのように修煉すればいいのか分かっていなかったことに気づいた」、「今になってようやく修煉の仕方が分かるようになった」という声をよく見かけます。 ここ数年、私自身も同じような状態に陥っていたことに気づきました。
1.「私」の基点に立って内に向かって探している自分に気づいた
家の年長者が高齢になり、彼らの介護に、以前より時間がかかるようになりました。 料理や洗濯、家事など、それなりに努力はしているつもりでしたが、その過程で葛藤が生まれるようになりました。 最初は、私の料理が彼らの好みに合わず、せっかく作ったのに食べてくれなかったり、文句を言われたりしました。また、年長者の部屋の片づけを手伝ったことで怒鳴られたこともありました。
その時、私は内に向けて探し、年長者を満足させるために最善を尽くそうと努力しました。それにもかかわらず、対立は解消されず、親不孝者と罵られました。
その後、あるプロジェクトに参加したとき、プロジェクトのメンバーである一人の同修が、私が初心者であるのを見て、熱心に教えてくれたのですが、そのうちどんどん厳しくなり、私はついに我慢できなくなりました。 その同修は自分のやり方を私に押しつけ、あまりにもプレッシャーをかけてきたので、私は、自分の気持ちが収まらなくなってしまい、大声で拒否してしまいました。 今までこれほど大きな声を出したことはほとんどなく、その同修に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。 その時、私は「家の年長者はこういう気持ちなんだ!」と、ふと気づきました。 自分が正しいと思う方法を相手に押しつけることが、こんなにも不快なことなのかと驚きました。
表面的には人助けをしているつもりでも、基点が自分本位から抜け出ておらず、相手がそれを受け入れられるかどうかを考えていなかったのです。 これも不親切の表れです。 内側に目を向けても、「私」の基点で探していたため、いくら修めても、本質的に変わることはなかったのです。
2.「無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにする」 [1]という師父の教えに従う
自分の問題を認識してから、家で料理や家事をする時は、できるだけ年長者の好みに配慮し、おいしいものは年長者に上げ、残り物を自分で食べるようにしました。 何をするにも、何を言うにも、相手の気持ちを第一に考え、自分の考えを押しつけないように心がけました。 感謝や見返りを求めず、できる限り与えることを心がけ、師父の言葉に耳を傾け、自分より相手を優先にする無私の精神を実践しました。
すると、私が変わったことで、年長者の態度も180度変わりました。 優しくて愛情深くなり、あらゆる面で私のことを配慮してくれるようになったのです。 大晦日には「我が家のシェフに」と、お金の入った大きな赤い封筒をくれたりもしました。
数年前、ある同修が 「私は最大の善を持ってすべての人に接したい」と言ったことがあります。数年後、どんな些細なことでも相手のことを優先に考え、無私の心で与える彼の姿を見て、善の力はとても偉大だと思いました。
自分を振り返って見て、三つのことを行う時、そして全ての行動や考えにおいて、その基点が自分のためなのか、それとも相手のためなのかを考えた時「長年修煉して来ても、実は修煉の仕方が分からなかった」という状態に気づくのです。実は、修煉の仕方が分からないのではなく、修煉の基点が正しくなかったのです。
以上が私の現時点での理解ですが、不足があれば同修のみなさまの慈悲なるご指摘をお願い致します。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」