文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年6月30日】私はいつも自分は愚痴を言わない人間だと思っていました。しかし、母と妹は私の前でよく文句を言いました。特に妹です。例えば、彼女自身が誤ってコップを床に落としても、常識的に考えれば、それはすべて彼女自身の責任です。しかし、彼女は癇癪を起こし、「他の人が話していたからコップを落とした」と不満を言いました。私も家族も理解できず、彼女の気性がよくないと思っていました。
最近、ちょっとした出来事があり、自分にも愚痴っぽいところがあると気づかされました。母はドアの後ろに床置きの扇風機を置いていたのですが、ある日、私がドアを閉めたときに、なぜだか扇風機を倒してしまいました。扇風機がドアの後ろを塞いで、外からドアを開けることができませんでした。私は思わず心の中で「どうして扇風機をドアの後ろに置くの、だれがやったの」と不満をこぼしました。
ふと、自分が文句を言っていることに気がつきました。扇風機は何日も前からドアの後ろに置いてあり、自分の不注意で倒してしまったのです。他人のせいにすることはできません。妹の愚痴も私を悟らせるためだったのだと閃きました。師父はヒントを与えて下さり、ありがとうございました。
私はまた、執着は誰にでもあり、大きさが違うだけであることに気づきました。安易に「自分にはあまり執着がない」と決めつけない方がいいのです。
私の心の中にはもう一つ誤った認識がありました。労働教養所から正念で抜け出すことができた経験があるため、生と死のような大きな難さえ乗り越えられたので、一般社会での小さな執着を大きな問題と認識していないのです。ですから私は、些細なこと、小さな人心にはあまり注意を払っていませんでした。
ある日、法を学んでいると、師父が「寺院や深山で修煉する場合は、完全に常人の社会と断絶させ、強制的に常人の心を放棄させ、物質的利益が得られない状況に身を投じさせて、失わせるのです。それに対し、常人の中で修煉する人には、このような方法をとらず、常人の生活環境のまっただ中にいながら、それらのことに淡々としていられるよう求めます。言うまでもなく、これは大変難しいことですが、われわれの法門の最も重要なことでもあります」[1]と説かれていました。
私は突然ある理を悟りました。つまり、邪悪な環境での修行と、一般社会での修行は別物であり、両者を混同してはいけないということです。正常な人間社会の環境は、この中で修煉しなければならないし、死を放下して、生と死の大きな難を乗り越えたからといって、他の人心を修めなくてもよい、些細なことに気を付けなくてもよいというわけではありません。実際、どんなに小さな心でも、実修しなければ自動的に消えてしまうことはありません。
例えば、家族が少し「贅沢」な食事や「良い」服装をしているのを見ると、悪い環境にいた時の基準や考えで気に食わなくなりました。しかし、家族には私の考え方を理解してもらえず、極端だと言われました。後になって、家族の生活が普通であり、労働教養所での経験を基準にして家族の生活を評価するのはおかしいし、比較すべきではないとわかりました。
また、労働教養所で10時間も警察官に怒鳴られても、あまり気になりませんでした。しかし、時に家族との些細な喧嘩も我慢しないことがありました。自分には家族や具体的な物事に対し、せっかちで、求める心が現れていました。
私は以上のことを反省し、このような些細なことは乗り越えられないのではなく、心の底から問題視していなかったからだと思います。さらに、家族といるので、無意識のうちに気を緩めてしまい、トラブルが生じたとき、心性を守れませんでした。これらの理を悟ると、私は昇華できた気がしました。それ以降、家族との軋轢が生じたときには、「我慢する」ことを特に意識しました。
しばらく実修してから、まさに師父がおっしゃった「もし本当にやり遂げられれば、きっと『柳暗 花明 又 一村』というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」[1]のとおりでした。私の家庭環境は、衝突が少なくなり、お互いに和気藹々になりました。
以上は私の個人的な体験であり、同修の皆さんと交流するのみです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』