文/アメリカの大法弟子
【明慧日本2021年8月4日】一人一人の法を得る道は異なり、長い人もいれば短い人もいて、難しい人もいれば簡単な人もいて、縁の致すところです。私は2011年に法を得た大法弟子です。私にこんなに素晴らしい大法をださった師父に感謝いたします!
修煉する前の私は、何かと言うと横暴な態度をとり、ハリネズミのようで、誰かが私の気に障ることをしたら、その人といつまでもやり合いました。ある日仕事の用事で出かける時、会社の管理部門が私が望んだ車を割り当ててくれなかったため、私はあろうことか会社の社長と数十人の事務員がいる場で、管理部マネージャーを名指さして罵りました。彼はわざと私に嫌がらせをして、私の仕事にまったく協力しないと言い、またいくつもの的外れの聞きづらいことを言いました。
同僚や友達は私を「できる女」と言っていて(当然ながら裏で何と言われていたかは知りません)、自分でも人から「できる女」と言われるのを喜んでいました。しかしどこに実力があったのでしょうか? 今になっても分かりません。家でも取るに足らないことで口論し、それが始まると終わらず、夫が弱みを見せてくると終わります。私はいつも顔に「自信」の笑みがあり、頭を上げて街のあちこちを闊歩していました。
しかし私の心はくたくたに疲れていました! 日を重ねるごとに病が蓄積し、心臓も良くありませんでした。30歳を過ぎたばかりですでに即効性のある心臓の薬を持っていて、白髪も多くなり、頻繫に筋肉が硬直して痛み、病院で検査しても原因が分からず、ただその場しのぎの治療をするだけでした。
2010年身体の不調のため仕事を辞めました。何もすることがないので、毎日ネットサーフィンをして、とても多くのものを見ました。私が特に好きだったのは神話や伝説、史劇などです。不思議なことに、いつも歴史ドラマの中で兄弟が酒を飲んで談笑したり、戦いで殺し合ったりする場面を見ると、私はまるで自分の兄弟がその中にいるような気がするのですが、それは誰でどんな姿をしているのかは分かりませんでした。
このようにネットサーフィンをして数カ月、中国数千年の歴史ドラマを一通り見ました。それぞれの王朝の栄枯盛衰、それぞれの歴史人物の潮の満ち引きによって私の心もそれに従って様々に変化しました。数カ月テレドラマを満喫しました。それは規模が凄まじい史実で、人物はみな雲散霧消し、歴史を記録した文字に変わってしまいました。自分を思うと、ちっぽけで、何にも出来ないのに普段は「横暴」で強がり、とても疲れました! 生活を変えてみようと思いました。それで最初に思いついたのは出家でしたが、どこに出家したらいいのか分かりませんでした。
中共の無神論の宣伝で、私の周りの親戚や先輩たちは、本当に神佛を信じている人はいません。彼らの目には、出家する人は必ず何かの打撃を受けて全てに失望した人が出家すると映っています。彼らに相談しても、きっと分からないだろうと思い言い出せずにいました。
私は、出家人とは毎日坐禅して手に経文を捧げて読んでいる印象でした。私はこっそりネットで各種の経文を探して読みました。何の法門かも分からず、探しては読みました。
ある日、こんな言い伝えを見ました。「釈迦牟尼佛は、末法時期に弥勒佛が世に下り新しい佛法を伝える」。どういうわけかその時私の頭の中で「法輪功」の三文字がひらめきました。
私が思うのは、新しいものは一般的に二つの特徴があります。1、生命力が強い。2、新しいので、人からそんな容易に受け入れられない。法輪功はちょうどこの二つの特徴に符合していると思いました。しかし私は法輪功を理解しておらず、ただ中共が法輪功を容認せず、煉功する人を至る所で逮捕して弾圧していることだけを知っていました。法輪功とはどんな功法なのか、私は全然知らなかったし、私に話す人もいませんでした。
私は数年前にネットで知り合った友人を思い出しました。私たちは会ったことはありませんが、雑談していると彼が良い人で、佛法について多くの知識があるとわかりました。私はいいチャンスだと思い、その友人を探してこの事を質問し、私の考えが正しいかどうかを判断してもらいました。
大法に出会えた喜び
その友人とこの話をしたとき、彼は私に「動態網」のリンクを送ってくれました。1~2分後、「明慧ネット」の入り方を教え、どのように『轉法輪』をダウンロードするのかを教えてくれました。現在はとても軽く話せますが、当時は邪党のネット封鎖の下、彼はとても大きな手間をかけてやっと私にこれらの情報を伝えたのです。
あの日を思い出すたびに、同修の勇気に感謝します。彼の勇気が無ければ、私はきっと今でも法輪功とは何かを知らなかったでしょう。同修よ、ありがとうございます!
『轉法輪』を一度読んだ後、これが修煉に関する本だと気づきました。修煉は当然ながら人に良い人になるように教えています。人に良い人になるように教えることがなぜ中共から封殺され禁止されるのか分かりませんでした。その友人は私に続けて何回も繰り返し読むようにと教えてくれました。
私は好奇心を持って真剣に何度か読んだ後、この本はちょうど私が探していたものだとやっと気づきました。彼はとても系統的に、簡単な言葉を使って、どのように修煉するか、宇宙の特性は「真・善・忍」で、皆は「真・善・忍」の基準に従って行い、煉功動作を加えれば高級生命まで修めることが出来ると教えてくれました。そのとき私はまだ宇宙の特性がそんなにも奥深いものだと理解出来ず、ただこの道德が退廃した社会では「真・善・忍」の三文字はとても貴重だと思いました。私は生命の深い所から一念が出ました。私は乱世の中でも最も貴重な生命でありたい! どんな代価を払っても、私は「真・善・忍」の基準に従い、これからの道を歩もうと思いました!
私はネットから『大圓満法』をダウンロードして、本の説明を読みながら煉功動作を学びました。最初に煉功したとき、椅子に座って第五式の功法をしました。足を地面に置いて、組んでいませんでした。その時も好奇心から、試してみようと思いました。椅子から静かに降りたとたん、まるで一つの水平でない円盤に座っている感覚があり、円盤は不規則に回転していて、少し「ガランガラン」という感じでした。私は椅子が動いているのかと思い、目を開けて見てみると、椅子は少しも動いていません。また静かに地面に座ると、あの「円盤」はまた回転しだしました。その瞬間私は大喜びしました。師父がおっしゃったのは全て本当だ! これは私が法輪大法の修煉を堅持する更なる決心となりました。
最初真剣に坐禅してもただ17分だけで、足の痛みが激しくなり、立ち上がりました。それからは機会があれば足を組んで坐禅して、痛くなるとまた立ち上がりました。足が痛むと、私は道を歩くとき少し足がおぼつかなくなるからです。
最初家族は不思議そうに私を見ていましたが、何も言いませんでした。数日後、夫は私に「もしかして法輪功じゃないか?」ときいてきて、私は「そうです」と言いました。おそらく夫は凶暴な私が「真・善・忍」をするなどおとぎ話と思ったのか、にこにこしてしばらく私を見てから、「外のあちこちで警察が法輪功をしている人を捕まえているのを知っているか?」ときいてきました。私は「知っています。ネットに書いてある」と言いました。夫はまた少し私を見てから「あなたは家でして、外に出ないで、家で身体を鍛えたらいいよ」と言いました。
こうして私の法輪大法を修煉する道が始まったのです! いくつかの煉功動作は『大圓満法』に書かれているのを見てもよく分からず、ネットでダウンロードした煉功を教える動画はいつも開けず、私は繰り返し何度も『大圓満法』を見て、自分の煉功動作を正しました。しかし第四式の功法の動作がやはり間違っていて、腰を曲げてかがむとき私の指は地面を擦って一周していました。1年後あの同修と交流し、当然ながら交流の過程はとても困難でしたが、私はやっとあの動作を正すことが出来たのです。
私は発正念をして邪悪を一掃することを知っていました。業力の障碍なのか、あるいは邪悪の妨害なのか、ネット上で言われている発正念の要領を見てもよく分からず、同修が危険をかえりみず何度も各種の方法を通して教えてくれました。やはり私はまた間違っていました。法を得て5年間、発正念のとき蓮華手印をせず、どうやってその手印をしたらいいのか分からなかったのです。発正念のとき、私は最初から最後まで頭の中であれを一掃したりこれを一掃したりして、鐘がなるとまた「滅」と念じていました。
修煉が進むにつれて、私はますます多くのことが分かっていないと気づき、多くのことをどうやって処理したらいいのか分かりませんでした。私は頻繫に危険を冒しながらネット上で同修に質問し、それからまたなんとか交流できても、最後にはやはり一知半解でした。私は直接彼に質問できず、彼も直接私に回答できず、師父の加持の下、2人とも謎解きのような交流でした。
あの時、同修とオンラインがつながってないととても不安で、心の中で何度も師父に同修を守って下さるようお願いしました。ある日同修が私に「あなたの義姉が洗脳班に連れて行かれたよ!」と言いました。私は崩れ落ちました。何度も師父に義姉の安全を求め、それからぼーっと座って涙を流しました。私はこれからも危険を冒してまで同修に手間をかけて良いのか分かりませんでした。しかしもし彼の手間を借りなかったら私はどうすればいいのでしょうか? 私は多くの事が分からないのです! このようにすればとても危険を冒すと分かっていましたが、やはりしばしば同修にあれこれ質問しました。
凶暴な「ハリネズミ」が「真・善・忍」に専念する生命となり、私はしょっちゅう修煉が上手く出来なくて、生活と仕事の関係でジレンマに陥ることもよくありました。私は何でもかんでも同修に聞き、そのたびに危険を冒して手間をかけてはいけないと思いました。あの時はしょっちゅうベランダに隠れて空を見上げて泣いていました。そこは師父に近いと感じ、あたかも師父があの空の上におられ、私を見て聞いてくださっているようでした!
私は早く地元の同修を探し出そうと思い、付近の市場を歩き回り、いろいろな場所に出向きました。おばあさんが小さな袋を持って正面から来れば、私はゆっくり歩いたり、理由を探して思い切って立ち止まり、相手が私に真相資料をくれるのを期待して、あるいは私に「法輪大法は素晴らしい」と言ってくれるのを期待しました。5年間探しても1人も見つかりませんでした。道行く人の中には見た目は温和で善良そうで、とても大法弟子のようですが、しかし私とすれ違っても、誰も少しも私を見なくて、私は目に涙をためてその後ろ姿を見て、心の中で何度も師父に求めました!
修煉してから、身体の病気は知らず知らずのうちに良くなり、とくに顔は6~7年前までは乾癬ができていて、以前は多くのお金を使ってたくさんの薬を飲んでも効きませんでしたが、煉功してからいつの間にかそれが完全に治っていて、一つの痕跡さえ残しませんでした。心臓が良くないのと身体の痛みもだいぶ改善されました。私は損得勘定にこだわらず、もう「できる女」として争わず、なるべく平常心を保って周囲の人と事に対応しました。私の家ではもう争う声は無くなり、夫はいつもにこにこして私に「安全に注意してね」と言ってくれました。
迫害が来た
私がいつもネット封鎖を突破していることが原因でしょう、邪党の人員が、私の家に法輪功をしている人がいるのを発見して、彼らは私の夫を大声で呼び出し、夫に保証書にサインするように脅し、彼自身と家族が皆法輪功をしないことを保証するよう脅しました。
この事があってから、夫は怖がって、前のようににこにこして私を見なくなりました。彼は私が修煉してからの変化を知っており、彼と彼の家族も皆法を得てからの私を好きでいてくれましたが、しかし邪党の恐ろしさが来て、彼らはやはり私を避けるようになりました。夫は頻繫に帰ってこなくなりました。それから彼は「このように不安で怖がりながら日々を過ごしたくない」と言い、私と離婚しました。
あの時私が唯一知っている同修はすでにアメリカで家族と団欒していました。おそらく私を守るためか、彼は出国してからほとんど私と連絡を取りませんでした。
離婚してから私は行く所がなかったのですが、離婚前に郊外に安い小屋を買っておいて良かったです。その時はビジネスのために買いましたが、ここにしばらく身を寄せて、街で放浪しなくても良くなりました。
しかし本当に1人で慣れない地で生活するのは、精神と物質上、どれも私を困惑させました。私は法を得た時間が短く、情もまだそんなに放下できていません。家庭を失った私は、1人になって多くのことを学ばなければなりませんでした。私は1人で住んでいることを人に知られていじめられるのを恐れ、家がないことを知られないようにしました。私は家族に、私が修煉したことで家庭を失ったことを知られることを恐れ、大法にマイナスな印象をもたらすことを恐れ、私が続けて修煉出来ないようになることを恐れました。私は父母と兄弟姉妹たちに私が離婚したことを知らせたくありませんでした。
あの時は法理上で多くのことを悟れなかったのですが、しかし師父や大法への確固とした信念で、この難関を一つまた一つと乗り越えることができたのです。
法を得たばかりの私は、頻繫に消業の状態がありました。最も多かった現象は、心臓が突然動かなる感覚で、一気に全身が無力になり、今にも失神しそうな感じでした。いつもこのようなとき、師父に絶対に外で倒れないようにさせてくださいとお願いし、もし私が業力消去のために失神しなければいけないとしたら、小屋に帰ってから失神させてくださいとお願いすることもありました。家でこの状況に遭ったとき、私は師父に、もし私が失神して倒れたら、必ず私を起こしてくださるよう求めました。このような現象が頻繫にありましたが、しかし師父は私を本当に失神して倒れさせることは無く、いつも仕事が終わってから家に帰って休むことが出来ました。
法理がはっきり分かっていないので、事に出くわした時、法に則ってどのように悟ればいいのかいつも分かりませんでした。誰かを探して交流したくてもどこにもいなくて、自分は孤立無援だと感じました。これは私の生活にとても多くの不便をもたらし、私のネットショップの仕事も冷え込んできて、二つの仕事を探しましたがどれも長くは続かず、私の生活は困苦に陥りました!
私が住んでいる場所と母の家は遠く離れています。私が苦境に陥った時、母の家に帰り、そこで合う仕事がないかと思いました。しかし母が最も心配するのは私の安全で、私がどこに行くにもついてきて、ほとんど私に他人と話させてくれませんでした。人がいない時、母は絶えず私の所へ来て「もう法輪功をしないように」と勧めてきました。彼らの家の付近の警官は毎日法輪功をしている人を捕まえているそうです。私は母の家では静かに修煉できないと思い、またあの小屋に帰りました。
2016年の新年前、私はこれからの日々に途方に暮れ、何を捨て何を取るのか分からず、部屋に座って涙がボロボロと流れました。郊外にいて誰も知っている人がなく、1人の知人もおらず、また地元の人は方言で話し、多くの人は北京語が分かりませんでした。私も彼らの言葉が分からず、彼らも私の言葉が分からず、真相を彼らに伝えることが出来ませんでした。
長雨が続いて雨漏りがしました。私がちょうど途方に暮れていたとき、妹から突然電話があって、「ネットショップを渡してほしい」と言われました。妹は人からネットで家具を販売すれば儲かると聞いて、私の店舗を使って家具を販売したいと言いました。繁盛していなくてもネットショップは私の唯一の収入源でした。ネットショップを彼女に渡したら、私は少しの収入も無くなります。前にした二つの仕事も良く出来なかったし、外へ出て仕事を探すのも自信がありませんでした。私は悩みました。妹は私の今の実際の状況を知らないので、彼女を責めてはいけません。店舗を彼女にあげないと怒るかもしれないし、彼女にあげたら私のこれからの生活はどうすればいいのかと、私は板挟みになって悩みました。夜にベットで横になるとあれこれ浮かんで眠れず、涙が枕を濡らしました……。
私は突然、師父は私に食べることが出来ないようにはさせられないと思いました! もしいつか本当にご飯が食べられなくなったとしたら、それは人間の食物を必要としなくなったのかもしれません。私は店舗を妹にあげる決心をしました。しかし妹はそれ以来私に店舗のことを言い出したことはありませんでした。
同修を見つけた
俗世の因縁が断たれ法の縁が生まれました。私が親戚の人たちに期待するのをやめてから、意外にも幸運なことに当地で同修が見つかりました!
その年の新年の数日前、私が住んでいた近くに何世帯か大法に関するものが貼られているのに気づきました。あのとき私は初めて真相紙幣以外の紙でできた大法に関するものを見ました。法を得てから5年間、私は本が無く、いつもパソコンか携帯電話で学法していました。私は興奮して対聯を見て、心の中で何度も「師父」と叫んで、人がいない時にそこに行ってその対聯を触ったりして、あの殊勝と親しみは言葉では言い表せられません!
私は彼らの中のどの一家が大法弟子か知りません。ちょうどどうやって彼らを探すのか考えていたある日、私の自転車が彼らの中の一戸の家の自転車のベルに当たって壊れてしまいました。私はドアをノックしてベルを壊してしまったことを謝罪して、後で新しい物を買って返却する言いました。彼らは返却しなくてもいいと言いましたが、私はやはり新しいベルを買って返すことにしました。ベルを返すその日、ドアを開けたのは年配のおばさんでした。彼女がベルを受け取ったらすぐ閉めることを恐れ、私はすぐにドアに一歩を踏み出して阻止しました。続けて私は声をひそめて彼女に質問しました。「おばさん、あなたの家の対聯は本当に素晴らしいですね。どこで手に入れたのですか?」。首を突っ込みながら部屋を見て、私は部屋の中に師父の写真があるかどうか、あるいは他の大法のものがあるかどうかを見てみたかったのです。彼女は私が対聯のことを質問したので、にこにこしながら私を見て、部屋へ入れてくれました。
部屋に入ってドアを閉めると、彼女は私に質問しました。「法輪功を聞いたことがありますか?」。この言葉を聞いた瞬間涙があふれました。この言葉を5年も待って、5年も探して、今日ついに叶ったのです! 私たち2人は泣いたり笑ったりして話しました。それから同修は私を連れて地元の学法小グループに参加し、一緒に通りで真相資料を配り、いろいろな所で人々に真相を伝え三退をしました。
「悠々たる萬世の縁 大法の一線より牽く 難中に金体を煉し 何故のんびりと歩むのか」[1]
私はついにやっとこの縁とつながりました! 法を得て5年後、私はようやく元の位置に着くことが出来ました!
師父の慈悲なる救い済度に感謝します!
私が法を得ることを導き助けてくれた同修たちの慈悲に感謝します!
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「神の路難し」