文/遼寧省の大法弟子
【明慧日本2022年3月4日】この半年間、現地では深刻な病業の仮相が現れる同修が増え、いずれも長引き、中には旧勢力に肉身を引っ張られてしまった同修もいました。私はこれらの同修と接触している中で、いくつかの身にしみる体験があります。それを皆さんと交流したいと思います。
観念を変えることが非常に重要である
ここで言っている「病業の関」は、引用符号を付けています。師父の法理から、大法弟子はそれが「病気」ではないことを知っています。しかし、実際には、同修のために発正念を手伝っている同修も含めて、多くの同修が「病気」という観念を心の奥底から根本的に変えていないことに気づきました。関の中にいる同修の表面的な症状に言及する時、一連の病名を思わず口に出す同修が多くいます。高血圧、糖尿病、乳がん、胃がん、五十肩などをよく耳にしますが、病名を挙げてから、「旧勢力の迫害を認めず、発正念してそれを根絶しよう」と言うのです。ところが実は、いかなる事でもその背後の要素があり、同修がその病名を口に出した以上、それを認めることになり、それを認めると同時に発正念をすることは、迫害を認める中で迫害に反対していることに等しいのです。
関の中にいる同修の多くは、このような人間の観念が強く、体が辛くなると、頭が無意識に多くの常人の病名と結びつけてしまい、苦しめば苦しむほど心配になり、ついに常人の方法を用いていろいろと治療するのです。発正念に協力する同修も、最初の自信満々から焦るようになり、最後には責める気持ちや、無力感に苛まれるようになります。時には、両方とも内に向けて探すことを知っていますが、いくら探しても、誰もこの小さなことに気づいていないことが分かりました。つまり、病名に対する執着と、病名を認めていることです。
法理をはっきり認識し、はじめて仮相を破り除くことができる
明慧ネットの交流文章の中で、多くの同修が「病業の仮相」という言葉を使っているのをよく見かけますが、この「仮相」という言葉はとても重要です。それは問題の本質と真相を表すだけでなく、関の中にいる同修にはっきりしている頭脳を保ち、他の空間の邪悪な要素を認識して解体し、理念上に本当に否定するように喚起することができます。
この「病業の仮相」を徹底的に取り除くために、大法弟子はしっかりと法を学ばなければならず、法理をはっきり理解できて、はじめて根本的に魔難から抜け出せるのです。実際、魔難の中にいる同修と接触しているうちに、この同修たちは法理が分かっておらず、学法が少なく、覚えていることも少なく、中に多くの同修は『論語』さえ暗記できていないことに気づきました。魔難に遭う時、頭の中から反映したのは法ではなく人間のものであり、自分の身体に現れた「仮相」を「真相」として受け止めてしまい、それを認め、感じ取り、どのように内に向けて探すかを知らず、仕方なく受動的に苦痛に耐えるしかありません。
「魔難」への執着を放下する
多くの同修は魔難の中の同修を助ける時に、よく次の事を経験します。それは、魔難の中の同修に影響され、心が落ち着くことができず、いつも同修のことが気になって、学法や煉功する時でも同修の事を思い出したりして、発正念の時も疲れを感じたりすることです。これは、すでに執着心が生まれ、心が動じていることを意味しており、注意を払う必要があります。早く調整しないと、自分に問題が起きるだけでなく、旧勢力に利用されて、魔難の中の同修に対する迫害がさらにひどくなり、同修を助けるどころか、かえって害を与えることになります。理智の状態を保ち、同修への執着を捨ててこそ、すきに乗じられることなく、同修を助けることができるのです。
魔難の中の同修にしても、あるいは同修を助ける同修にしても、この「仮相」を重く見てはいけません。魔難を乗り越えられなかった同修のほとんどは、仮相」を重く見過ぎて、放下できないことが原因で乗り越えられませんでした。
師父は私たちに「修は己にありて、功は師にあり」[1]、「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」[1]、「もしあなたが病気のことばかり考えるその心を捨てられないのなら、われわれは何もしてあげられないし、どうすることもできないということを強調しておきます」 [1] と何度も説かれています。
ましてこの魔難は、ただの「仮相」に過ぎないからです。
心を静めて学法することが鍵である
実は、魔難の中にいる同修にとって一番必要なのは、心を静めて学法ができる環境であり、心を静めて学法することによって、自分の心身が法に溶け込むことができるのです。人が完全に法に溶け込むことができるなら、すべての正しくない要素を解体し、生命が法の中で昇華することができます。私自身が関を乗り越える時に体験したことですが、毎日、食事と睡眠以外の時間はすべて、法を読み、法を聴き、法を暗記し、発正念と煉功に使い、特に大量に法を学び、法を暗記し、全ての経文を一通り読み、発正念の回数を増やし、しかも質を確保しなければならず、手が倒れたり眠くなったりしてはいけません。眠いときは目を開けたまま正念を発し、しばらく持続すれば状態が良くなります。
実際のところ、心が静かになり、頭の中に法しかない時、自分が空になり、周りのものが存在しなくなったような感覚を味わうことができ、「仮相」も消えていくはずです。
交流について
また、同修間の交流は、同修の正念を加持し、魔難に打ち勝つ自信をつけることにつながるはずです。ですから、交流に行く人は法理についてはっきり理解しなければならず、さもなければ良い効果が得られません。
交流は形式的なものになってはいけません。交流の効果も人数と関係ないと思います。同修の家族の誤解や反感を招かないように、同修の環境や精神的な余裕を考慮し、一方的に押し付けてもいけません。
私は大人数を避けたほうがいいと思います。病院に行くか行かないかという敏感な問題については、交流に行く同修は代わりに勝手に決めてはいけない、「大法の中では、病院に行ってはいけないという決まりがないので、行くか行かないかは本人次第です」と同修の家族に伝えるとよいでしょう。
病院に行ったことがあり、心理的負担が重い同修に対して、なおさら法理に基づいて交流し、同修に心理的負担を放下させ自信をつけることがより重要だと思います。
以上はあくまでも最近の個人の悟りであり、法に則っていないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】