執着心はどこからやって来るのか
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文/米国テキサス州の大法弟子 漸明

 【明慧日本2021年8月13日】アメリカに来てから数年間が経ちました。ずっと中華料理店で配達の仕事をしています。主な収入は、お客様からのチップです。通常のチップは代金の10~20%ですが、中には非常に少ないか、全くのゼロという人もいます。そんな時、私は非常に腹が立ちます。遠い所を届けに来て、車も使ったし、ガソリンも減った、時間と労力もかけた、時には雨や風、雪も降ることがあるし、あまりにも損だ! と辛くなります。こんなお客様は、嫌な人だなと思います。

 このような執着が現れる度に、内に向けて探すべきだと分かってはいます。しかし今回その執着を取り除いたとしても次回にまた現れ、いつまで経ってもきれいに取り除けません。

 師父はこのように説かれました。「如何なることも修煉者の切実な利益にかかわり、如何なることもあなたという人間、あなたの考えと情緒、あなたの心性、あなたが考えの中で執着しているものに刺激してしまいます」[1]

 私は1998年に大法の修煉を始めました。日々の仕事や生活で、執着に駆り立てられたり、心や魂を揺さぶられたり、絡みついてきたり、妨害されたりと様々なことに出会うことがあります。どうやって修煉すればいいのか分からないため、20年以上修煉していても、まだ山ほどの執着が残っています。よく修煉した部分は隔離されたため、修められた執着心も少なくないかもしれないということは知っています。しかし修めきれず、いつまで修めれば終わるのかなと感じます。ですから、長い間ずっと自分に問い続けています。「執着心は一体どこからやって来るのか?」と。

 今まで、執着心は後天的なもので、社会で長期にわたり形成された観念によりもたらされたと思っていました。私はもう60歳になろうとしていますが、これまでに形成されたさまざまな観念は、すでに深く根付いています。私は「どうしようもない、これだけの執着心があるのだから、ゆっくり取り除くしかない」と思いました。

 ある日、妻(同修)と話していた時、うっかり「我」という字は左側が「手」で、右側が古代の武器である「戈」で出来ていると言ってしまいました。漢字は神伝文化であり、この字を作る時、神は人々にすでに「我」は利己的であり、自分の利益のために、常に「手」に「戈」を握って、他人と戦っていると伝えたのです。

 その時初めて、はっと悟りました。すべての「私」は「我」から生まれ、「我」のために成長し、「我」から数多くの自分のための観念が生じて、自分が傷付かないように、不利益を蒙らないように、心地よく安らげるように、幾重にも自分を守っているのです。この利己的な観念が、あらゆる種類の執着を形成したのです。したがって、すべての執着は「私」から、つまり「我」から来ています。

 この「我」は生来のもののようで、無数の層の上着のように「私」をしっかり包み込んでいて、切り離すことができません。この「我」は、めまぐるしく変わるので予測不可能です。時に姿を現して、損や危害から自分を守るために積極的に出撃して争奪します。そして時に奥深く隠れていて、少しの安逸や心地よさのために静かにあなたの心に触れ、あなたに絡みつきます…

 「我」は時に様々な魔に扮してあなたを誘惑し、惑わせ、名、利、情に陥れ、自ら抜け出せないようにさせます。また、「我」は常に新しい執着を生み出し、絶えず補充し、入れ替えていきます。

 「我」は、あなたが昇華できないようにさせるロープのようなもので、力強くあなたを下へと引っ張ります。「我」は、高次元の生命を高次元空間から低次元空間へと引っ張り、「我」は、地上にいる修煉者をしっかりと引っ張って、高次元空間へ昇華できないようにします。

 すべての執着の根源は、ほかでもなくこの利己的な「我」にあります。「我」はとても強いようですが、どうやってそれを取り除くのでしょうか?

一、「内に向けて探す」ことが宝物

 「本当に修煉するには、心に向かって、内に向かって修め、内に向かって探さなければならず、外に向かって探してはいけません」[2]、「不愉快なこと、機嫌を損なうことに遭ったとき、個人の利益、自我が刺激されたとき、内に向けて見ることができ、自らを修め、自分の漏れを探し、トラブルの中であなたが間違っていなくても、『分かった。きっとどこかに間違いがあった。本当に間違いがなくても、以前の借りを返しているのかもしれない。正しく行い、返すべきことを返す』とこのようにします。絶えずこのような問題や出来事に遭い、絶えず自らを修めるのです。もし修煉者がこのように問題を考え、正の理で自らを修めていれば、常人の中で遭った不愉快なことは良いことではありませんか?」[3]

 上記の師父の説法から私は悟りました。一人の修煉者として、いつ何に遭遇しても、心が動じる限り、それは「我」という私心が作用を働いているのです。私心が重ければ重いほど、心が強く動じます。この時、すぐに内に向けて探し、自分の私心を見つけ出し、自分の執着を探し出すべきです。特に誰かとトラブルが発生した時、必ず「正しきは彼 過ちは私」[4]という原則に従って、自分の心性から原因を探し、執着を取り除くべきです。

 例えば、配達の際にお客様がチップをくれなかった場合も、内に向けて探すべきです。もしかして私がお金を大切にしすぎていて、チップをくれなかったことを通じて私の利益を求める心を取り除かせてくれているかもしれません。あるいは前世で私が相手によくないことをしたため、今回逆に私に返ってきたのです。法理を理解することで、自分の執着心を放下することができました。

二、何かをする前に、相手のことを考える

 師父はこうおっしゃいました。「われわれ煉功者においては、トラブルが突然現われることがあります。その時、どのように対処すればよいでしょうか? 平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」[2]

 私は修煉者として、どうして執着心がよく現れてくるのかと考えました。まさにこの自分のためという「我」が作用を働いています。ですから、まずはこの利己的な「我」を捨てることが大切です。「我」を修めるには、師父の説かれた「何かをする時にはいつも他人のことを考え」[2]に従い、他人のために考え、人を先に自分を後にしなければなりません。こうすれば自我が薄れ、執着が生じなくなります。

 さらに高い次元では無私無我の状態です。「佛家は空を唱え、道家は無を唱えています」[2]。私は、「空」と「無」とは、利己的な「我」を完全に修めてからできることであると理解しています。「心在らざれば 世と争うこと無し 視ても見ざれば 迷わず惑わず 聴いても聞かざれば 其の心乱れ難し 食しても味わざれば 口その執着を断つ 做して求めざれば 常に道中に居る 静にして思わざれば 玄妙を見る可し」[5]となることだと理解しています。自分の観念の中から「我」が完全になくなれば、自分の心も空になったようで、何も気にせず、何にも心を動かされず、どんなことがあってもニコニコしていて、「無私無我」の状態に至ります。

 実は、後天的な「我」は本当の自分ではありません。修煉者として、私たちは大法に完全に同化した、人のための生命です。私たちが法を正す時期の大法弟子として師父に確立された時、師父は私たちの根本的な生命を造り直して下さいました。私たちの本当の自分は完全に新しく、真・善・忍で構成され、人のためのものであり、師父の必要とされることに圓容し、大法に圓容する生命です。これに符合してないのはすべて古い要素であり、すべて偽りの自分であり、それこそ私たちが修めるべきことです。

 自我に執着すれば、未来に入れません。実際に私たちのすべては新しいのですが、それでも修め切れてない古い要素の存在や、後天的な自分に左右されることがあります。法を正す時期の大法弟子全員の真の自分は新しい生命であることを認識してからこそ、このような古い偽りの自分への執着を徐々に取り除くことができるのです。

三、心を込めて法を学ぶ

 師父はこのように説かれました。「必ず法をしっかり勉強すべきであり、それは皆さんが位に帰るための根本的な保障です。(弟子の皆さんが拍手) それは師父が軽々しく考えたことではなく、師父が皆さんに説いたのは宇宙の法なのです。先ほど皆さんにくれぐれも修煉を怠ってはならず、くれぐれも法の勉強を緩めてはならず、必ず真剣に勉強すべきだということを教えました。今までしっかり勉強しなかった人は師父が今日もう一度話したので、帰ってから必ず真剣に法を勉強し、修煉し、考えがほかのことに気を取られてはいけません。(弟子の皆さんが拍手)」[3]

 修煉者としては、毎日法を学ぶ必要があると思います。真剣に法を学べば、利己的で自分勝手な「我」は玉ねぎのように剥がれ、執着の根が少しずつ掘り起こされて行くのではないでしょうか。
 以上は個人の悟りであり、不適切なところについては、同修にご指摘お願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是 誰が非」
 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」

 注:【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び、比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/7/22/428519.html)
 
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