ワクチン強制接種は私とは関係ない
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2021年9月1日】最近、明慧ネットでは、コロナウイルスのワクチンを打つべきかどうかについて、多くのシェア記事が掲載されており、それぞれの作者が師の法を理解した上で意見を述べています。

 師は私たちにこう説かれました。

 「具体的な問題についてどうすればよいかは、大法に照らして判断し、良いと思うようにすればよいのです。常人はやりたいようにやっていますが、それは常人のことです。誰もが真に修煉するというのは不可能です。しかし煉功者に対しては、高い基準で律するべきなので、これは煉功者に出された条件なのです」 [1]

 重要なのは、予防接種を受けるかどうかではなく、この問題にどのような心構えで臨むか、予防接種の義務化を前にして心がどう反応するかだと思います。私たちは修煉者として、すべての出会いは修煉に関係しています。

 先日、ある同修が私の家にやってきて「パンデミックが猛威を振るっているので、ウイルスに感染するのが怖い」と言って、マスクを外すことを拒否しました。私は「あなたは大法弟子ですから、どんなウイルスもあなたには近づけません。もし感染しても、あなたのゴン(エネルギー)がそれを除去してくれるでしょう」と答えました。

 一部の修煉者は、師の法にある「最大限に常人に準じさせており…」 [1]という教えを、ワクチンを打つための口実にしていました。ある人はこう言いました。「ワクチンを打たないと、子供を学校に迎えに行ったり、買い物に行ったり、仕事を続けたりすることができるかどうかという心配があります」

 これらはすべて、理由のように思えるかもしれません。しかし、私たちは自分自身に問いかけてみましょう。大法弟子としてこのような問題に直面したとき、私たちの心はどのように反応するでしょうか? もし神のような存在がこの問題に直面したら、どうするでしょうか?

 私の場合、ワクチンを打つべきかどうかは考えませんでした。何のために修煉者がそれを必要とするのか? また、お店に行けるかどうか、バスに乗れるかどうかも気にしませんでした。私は大法弟子です。師が私を見守ってくださいます。修煉者が乗り越えられない関門はありません。

 迫害が始まってすぐ、多くの法輪功学習者が連行され、地元の洗脳班に送られ「信仰を捨てなければ、仕事や学校を追放される」「労働教育や刑務所に連れて行かれる」と脅されたことを覚えています。

 圧力に屈して、意に反して信仰を捨てた修煉者も少なくありませんでした。しかし、動じない人もいました。ある修煉者は言っていました。「私は信仰を守るから、好きなものを持っていきなさい!」と。ところが、洗脳班の責任者は彼を賞賛していました。洗脳班の責任者は、彼が勤務していた学校に彼を車で送り届け、学校の幹部が苦しめないように、教師を続けさせてほしいと頼んだのです。

 私の街では、コロナウイルスの影響でバスが運行しない時期がありました。運行再開の際には、携帯電話で健康コードをスキャンしないとバスに乗れないと言われました。私は何度も運転手に携帯電話を持っていないことを伝えると、そのまま乗せてもらえました。運転手の中には、私の情報を教えてくれと言う人もいましたが、高齢者カードを見せると、バスに乗せてくれました。

 コミュニティでは、全員に予防接種をするようにという通知がありました。私はその通知を無視しました。後日、コミュニティの職員が確認に来たとき、娘は「私たちはワクチンを受けないです」と言ったそうです。その後、コミュニティの副主任が来て、私たちに圧力をかけてきました。私は、中国の疾病予防管理センターの職員でさえ、中国製のワクチンには効果がなく、ワクチンを接種した人の中には、ワクチンを接種していない人よりもウイルスに感染する率が高い人がいることを認めているので、私は注射を受けないと伝えました。副主任は「それはわかっていますが、我々は自分の仕事をしているだけです、私達もワクチンを接種しないといけないのです」と話しました。

 師は教えてくださいました。「一つの心が動かなければ、全ての変動を制することができる」 [2]

 私の意見ですが、修煉者としては「確固たる正念と正しい信念を持てば、心は動じないということを指しており…」 [2]を持つべきだと思います。物事はシンプルに考えれば考えるほどいいのです。考えすぎると実は人心が出てきて、人心が「鬼を引き寄せる」ことになります。

 以上が私のレベルでの理解ですが、法に基づいていないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文『二〇〇五年カナダ法会での説法』

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/11/429294.html)
 
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