明慧ネットに参加して会得したもの
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文/台湾の大法弟子

  【明慧日本2021年9月9日】私に明慧ネットの仕事に参加して欲しいと言っている同修がいると聞いた時はとても嬉しかったことを覚えています。大げさではなく、明慧ネットは私の22年の修煉過程の中、ずっと心の拠り所になっており、最も参加したいと思っていたプロジェクトでした。慎重に考えた末、明慧ネットに参加することを決めたことで新しい修煉の道を開くことができました。

  明慧ネットに参加し始めて、私はやはり自分が熟知していることについて評論文章を書きましたが、明慧ネットの規準は厳しく、要求もメディアとはかなり違っていたため、文章表現の仕方を把握できませんでした。特に、中国の同修が投稿した評論文章を修正した時、原稿の文章は非常に長く、1万9000字程度ありましたが、論理的で文脈の流れが滑らかだったので、数日間で私は自信満々で書き直すことが出来たと思いました。

 編集をしている同修も手直しにかなり手間をかけ、私たち2人は文章の出来がけっこう良く、衆生済度に良い効果を得られ、文章は順調に仕上がってウェブページに載るだろうと考えていましたが、結果は青天の霹靂でその文章は使われず、私たちは本当に気落ちしました。

  純粋な善の心で他人を考慮する

  その後、同修が伝えてくれたことによれば、その文章はやはり常人の政治的要素を帯びていて、純粋な善に欠けているため使えないということでした。私は、何が政治の要素なのか、どうやったら純粋な善に至るのか、最初全く理解することができなかったので、同修の助けで交流し、内に向けて探すことにしました。

  ある日、師父はある段落の法で悟らせてくださいました。「平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません」。[1]

  この段落の法を暗記するたび、いつも心に入っていかない感覚がありました。「何かをする時にはいつも他人のことを考える」。今回私は自分のやり方が確かにあまり他人のことを考えておらず、いつも自分のやりたいようにやっていたと気づきました。文章を書くことを含めて、あまり読者のことを考えず、いつも何かあれば書き、書きたいことをなんでも書いていて、確かに善が足りなかったと思います。中国の読者は中国共産党によって酷く洗脳されていて、彼らにとって受け入れがたい言葉があり、もし、思ったことをずばりと書いてしまえば、衆生を遠ざけてしまうのではないでしょうか? 不足に気付いたことはとても喜ばしいことで、よりよい方向を目指して頑張れる目標を見つけられたことは良いことでした。

  その他に同修との交流を通して、私は明慧ネットが、世の中でもっとも大事な真相である、法輪功の真相を伝えなければならないと理解しています。常人の様々なことに至っては、目まぐるしく変わる政治の社会情勢が人々を惑わせており、その多くが旧勢力の按排していることであり、人々が大法の真相に関心を持つことを邪魔しています。ですから常人のこのようなことは明慧ネットが着目すべき重要な事ではありませんし、修煉者が関心をもつべき事柄ではありません。

  迫害を受けた同修と共に衆生を済度する

  酷い迫害を受けた同修の文章を受け取って修正した時の事を思い出します。同修の迫害の話を読み始めたばかりの頃は、実は最後まで読むには忍びなく、読み終えた時は目から涙があふれました。しかも原文はとても長く、細部まで克明に書かれており、修正し始めると大仕事になり、頭がくらくらしてきました。しかし、師父のご加持と同修の助けのお蔭で、偶然にも他の同修がすでに編集し終わった別の文章が見つかり、それは丁度私が必要としていたものの一つでした。迫害を受けた同修の現状と中共に迫害された知識人の状況をまとめ、書き加えて直し、ついに比較的順調に原稿を仕上げることができました。

  迫害を受けた同修の文章を書き直すにあたり、一部の同修はすでに痛ましい迫害により世を去っています。不思議な事に、その同修はこの世にいないにもかかわらず、彼らの話を書き出していると、私は同修と共に衆生を救い、同時に各々の業力を消去し、旧勢力の按排を打ち破っている感覚を覚えました。

  同修に対する観念を取り除く

  ネット上での作業をしているため、プロジェクトチームの同修とは会う事がなく、お互いによく知りません。しかし、以前別のプロジェクトで仕事をしたことのある同修もいて、私はすでに彼らに対して観念を形成してしまい、よく知る名前を見かけるとまたその観念が出現し、本当にさまざまな感情が沸き上がってくるのです。

  内に向かって探してみると、きっと嫉妬心の要素があり、同修が私の観念に合わないと無意識に排斥し、見下していました。しかし、いつも執着心の根を掴んでいませんでした。その後、学法中に師父は直接悟らせてくださいました。「なぜなら、人間には情があります。怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです」。[1]

 ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、すべてが情から出ていて、すべてが「私」なのです。修煉する人は情と私を取り除かなければなりません。他人を先に、自分を後に考え、どの人に対しても慈悲の心をもたなくてはなりません。

  私が認識したのは、わたしは大法弟子であって、旧勢力ではないということです。真相を伝えて衆生を救う時、いつも無条件で慈悲をもって相手に話し、相手がよい未来を選択することを希望しています。ならば大法を修煉する大事な同修であればなおさらではないでしょうか? 同修の間ならばさらに無条件に助け合わなければいけません。私は、同修に修煉を成就して欲しいと思っています。ただ同修が成し遂げて欲しいと思う気持ちこそ、師父が要求される正法の時期の大法弟子の基準ではないでしょうか。

  結び

 この文章の原稿を書き終えた後、一日中「善」の状態の中に浸っていました。「自我」の物質が抑制され、全身が大法の慈悲のエネルギーに包まれて、とても心地良かったのです。今回の体験文章を書けるよう励まして下さった師父に感謝を申し上げます。また、共に励んでいる全ての同修と、正しく最後の道を歩めるよう願っています。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/2/430321.html)
 
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