不満を言い 人を恨む心を修める
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文/海外の大法弟子 

 【明慧日本2021年11月18日】少し前、恨む心に関する同修の交流を聞いて、自分の問題を思い出しました。私は真面目に仕事をする人間ですが、一度、同修が私への引き継ぎをうまく手配できていなかったために、私はお客様にどう対応すれば良いか分からなくなりました。その時次のような一念が浮かんで来ました。「こうなるとわかっていたら、私はやらなかったはずだ」と。この考えから分かるように、私が一番気にしていたのは自分の失と得で、人に対する寛容の心が足りませんでした。私は真・善・忍の基準で自分を律するのではなく、自分が設けた基準で他人を量っていました。

 師父は次のようにおっしゃいました。「自分が純潔で清らかだと言っている人がいますが、実はそうではなく、多くの雑念があり、後天的に形成した多くのものを持っています。あなたが思っている簡単な一念でも、その出発点、起因、付随してきたものまで不純であるかもしれません」[1]、「人類社会や私たちが目にすることのできるこの全ては偶然に存在している可能性があるのでしょうか? ひいては全ての大法弟子の一挙一動、一言一行、あなたが考えている事までただで済むことではありません。将来これらを見れば、全ては相当綿密に按排されていると分かります。私が按排したのではなく、それらの旧勢力が按排したのです」[2]

 私は突然警戒しました。「こうなると知っていたら、私はやらなかったはずだ」という考えは大脳から自然に出てきたものであり、深く十分に考えをめぐらしたものではありません。多くの考えは自分が本当にそう考えていたのではありません。真の自分なのか或いはやはり後天的に形成された観念なのかを見分けられるかどうかがとても重要です。修煉とは段取りされた思想の台本に沿って行かないようにしてはじめて、物事の本質がはっきり見えるのです。不満をこぼすことは表象であり、それはとても多くの執着心によって構成されます。例えば、利益を求める心、嫉妬心、メンツを重んじる心、独りよがり、顕示心、安逸心、過ちを犯すことを恐れる心などなどがあります。

 師父は次のようにおっしゃいました。「修煉は神が人心を見ており、この活動自体が完璧で周到に段取りされたかどうかを神は見ていません。完璧でなければないほど神は喜んでいます。完璧ではないと気づいたら、誰がそれを良くし、その不足を補ったのかを見ています。なぜなら、どんなことでもあなたの修煉と関係しているからです。神が見ているのはあなたの修煉なのです! 勉強するだけで実践せず、積極的に修めているのか、それとも受け身的に前へと進んでいるのか、そこに現れたのはあなたが修煉するかどうかの問題です」[3]

 不満を言うことは単純に口を修める問題だけではなく、その最も基本的な問題はあなたが修煉したいかしたくないかの問題なのです。同時にそれは外に向かって求める現れでもあり、その時間が長くなると恨むようになり、修煉を知らないうちに怠ってしまい、向上できなくなります。不満が少ないほど多く内に向かって探すことができますが、これも相生相克の理です。

 修煉者は絶えず自分を修める時、修煉の道で絶えず前へ進むことができ、絶えず新宇宙に同化することができます。自分をよく修めないのはほかならぬ旧勢力の脚本に沿っていくことです。他の人も同じです。もし他の人の脚本も段取りされたものであれば、どうやって人に脚本を修正し、うまくやるよう要求するのでしょうか。同修の不足が見えたら、私たちは善を勧めることしかできません。しかし当事者が自分の問題を認識できなければ他の人にはどうしようもありません。この道理が分かってから、師父の次の話の意味をさらに理解することができました。「良くできた部分はすでに見ることができず、隔離され、皆さんが見たのは永遠に修煉がまだできていない部分です。しかし、皆さんは慈悲心を持つべきであり、固定した見方で相手を見てはいけません」[4]

 アメリカのある精神科医は、意念が人体の健康に与える影響について実験を行いました。彼はある種の機器で人の身体の振動(周波数)を測定しました。彼は患者を見ただけでなぜこの人が病気を患ったのか分かると言いました。なぜならこの患者の身体のどこにも愛が一切見えず、見えたのはただ苦痛、恨み、気落ちだったからです。マイナスの意念が多すぎると自分を傷つけるだけでなく、周りの磁場も悪くなります。これらはすべて低周波の振動であり、癌や心臓病などを招く原因でもあるといいます。慈悲で喜捨を好み、他人を手助けし、思いやりがあり、穏やかで、自分の人生に満足している人は、みな非常に高い振動(周波数)を持っており、周囲の人も和やかに感じます。

 不満が役に立たないと口では不満をこぼさなくなりますが、消極的で悲観的になり、これらはいずれも自分の正のエネルギーを消耗することになり、修煉者が持つべき状態ではありません。しかももし普段から頭の中で考えることがすべて人を非難し、不満などのマイナスの考えばかりであれば、話したことも不純であり、正の要素を帯びておらず、物事を上手に対処できません。以前ある同修が私に協調人との誤解を解いてほしいと頼みました。最初の頃、これは私が起こした訳ではなく、責任はその同修にあるのに、なぜ私が対応しなければならないかという一念がありました。あとで自分がプラスの影響を与えるべきだというように考えが変わり、その後、協調人に自分に正しくないところがあると伝え、その同修のために事情をはっきり説明し、その同修がずっと協調人に誤解されないようにしました。

 他人に対して不満を言うとか、マイナスの考えを持っていてはいけないと知っていながら、なぜ時々抑制できないのでしょうか? これを突破するのは非常に難しいと感じ、どうしようもなく、時間が長くなると無頓着の状態になってしまいます。今は分かってきました。もしただこの心を抑制しようとするだけで、どうしてそれを取り除くべきかの理由や、それが自分の修煉に与えるマイナスの影響を根本的に理解できなければ、真に自分を変えることができません。そして問題に遭遇したらぶり返しが発生します。実は他の執着心も同じです。

 師父は「このように話しましょう。大法弟子に関して言えば、あなたへの要求は高く、いかなる環境での修煉よりも高いのです。形式上ではそれほど厳しくありませんが、修煉の基準は厳しいのであって、要求は高いのです。あなたは自分の過ちに気づかなければ、それではいけません。自分自身に非常に強い人間の執着があると気づかなければ、それではいけません。これらのことを認識したら、もちろん、大法弟子として必ずしっかり行わなければなりません。これはつまり修煉なのです」[5]と言われました。以前は「いかなる環境での修煉よりも高いのです」[5]という話が自分に対しておっしゃっているとそれほど感じませんでしたが、今になってやっと自分が間違っていることをまったく意識していなかったからそうだったと分かりました。自分はプロジェクトや会社のためだったと思っていたので、その心に気づかなかったのです。私たちは毎日常人社会で修煉しているので、常に法で自分を照らしていなければ常人に影響され、常人より上手くできただけで満足しがちです。常人は毎日不満を言い、それが日常茶飯事になっています。この前同僚から、誰々は常に不満を言っているのに、あなたが不満を言うのを聞いたことがないと言われました。そこで気付いたのは、自分自身を修めることは極めて重要だということです。常人は黙って私たちを見ていて、神も皆見ているのです。

 今同修や仕事に対してマイナスの考えや不満がある時、「あなたは修煉したいのか」という考えが浮かんできます。この一念でいかなる不満や不平の考えが止まり、続けて内に向かって自分の問題を探すようになります。一度、私はチケットに関するお客様対応を責任者にお願いしました。数日経っても処理してなかったので、心の中で次の一念が現れました。「これはたった数秒で解決できる簡単な問題なのに、彼女はなぜやらないのか?……またどれくらい時間を伸ばすつもりなのか?」と。この一念が出た後、私はすぐ自分に善の心がないことが分かり、このマイナスの考えを止めました。そして善の心を持って彼女にショートメッセージを送り、このことに対応するよう注意を促しました。彼女は当日中にすぐ対応してくれました。後で自分の思想動機を深くまで探してみると嫉妬心が作用していました。私の観念の中では、協調人は自律的に責任を負うべきであり、周りの人は注意を与える必要もないと思っていて、少しでもうまく行かないと協調人に意見が生じていました。このような考え方は師父が嫉妬心の問題について言及されたときに挙げた例と同じではありませんか? 「今日では労働模範をつとめるのも辛いもので、『君は労働模範だから優秀だ。君のような人は、朝早くから夜遅くまで働くべきなので、この仕事は全部君に任せたよ。君は良くできて、俺たちはどうせ駄目だから』と、あてこすりをされますので、良い人になるのも辛いものです」[6]

 これほど長く修煉しましたが、もしいつも「小学校の教科書」の理を抱いて放さなければ、本当に永遠に向上できません。今の私は改めて新しい基準と角度から問題を見ることができ、もう二度と過去の基準に従って出来事を量ることはありません。絶えず自分に対する心性基準を高めてこそ、修煉の道で絶えず精進することができます。

 足りない部分があれば同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:

 [1] 李洪志師父の著作:『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「米国フロリダ州法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」
 [5] 李洪志師父の著作:『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』
 [6] 李洪志師父の著作:『轉法輪

【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/18/430900.html)
 
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