文/アメリカの青年大法弟子
【明慧日本2022年1月29日】
同修と協力する中で人心を除去
私はある大法のプロジェクトに参加しています。そのプロジェクトを完成するには、複数の同修が協力し合う必要があります。その間において、私はかつてない心性の試練を経験しました。最初、トラブルがとても激しかったので、私は誰を見ても気に入りませんでした。本当に1秒でも、このプロジェクトに残りたくはありませんでした。なぜなら、自分はとても優しい人であって、めったに人と喧嘩したりすることもなく、周囲からも温和な人だと評価されていたからです。しかし、このプロジェクトの中で、こんなに激しい心性の衝突に遭遇するとは、とても思いも寄らないことでした。
何度か心は火で焼かれたように辛く、プロジェクトを離れようと思ったのですが、しかし今回、これまでにない心性を向上させるチャンスを、師父はいろいろな形で啓示してくださいました。私が作った作品を見て興味を示す視聴者がほとんどいなかったので、「この作品は、衆生を救う役割を果たせるだろうか」と疑った時、「本当は、このプロジェクトはみんな競ってやりたいのだ」と師父からの啓示を、またもらうことができるのです。毎日学法する中で、絶えず師父の言葉に励まされていたのですが、職場に戻るとさまざまな不満が生じ、さまざまな面倒なことが次々と起こりました。
ある日、学法をした時ある一節を読みました。「複雑な環境は、わたしは逆に良いことだと思います。複雑であればあるほど、その中から高人が現われてくるのです。こういうところから抜け出せるようでしたら、その人の修煉は最もしっかりしたものといえます」[1]。私は、「今の最も複雑な環境の中で修めていこう! 他の仕事に移るとしても、ここで放下すべき執着心を取り除いてからにしよう!」と決心しました。新しい問題にぶつかるたびに、「ここでの修煉はまだ終わっていないのだ」と思うと、不平不満に満ちた心はすぐに落ち着くことができたのでした。
次第に、同修との間のトラブルは少なくなって、職場の環境はまた正常で和やかな雰囲気に戻りました。しかし、乗り越えないといけない関がまだ存在していました。時には心の中で、また「誰か」に不満を持っていたとしたら、後日その「誰か」が喧嘩を売ってくるのです。これは、私がよく修煉できていないことによるものであり、そんな日々があるのは、修煉の過程だからだと思いました。
ある日、自分が制作した作品を他の同修の作品と比較して見ていると、あまりにも差が大きいと感じ、落ち込んでしまいました。しかし、私の作品はある種の生命に好かれており、彼らはこのような真相を伝える作品を見たいと思う気持ちを、私は天目を通じて感じました。彼らの喜びは、表面の空間だけでなく、他の空間からも伝わってきたもので、私の心を潤わせているのです。ぱっと見て、この作品が良いか良くないかにかかわらず、「修煉者が作ったすべての作品には、存在する理由がある」とそれが一瞬にして分かりました。もちろん作品の質を上げると、真相を伝える効果も良くなるのは事実なのですが、修煉者は互いに認めようとせず、喧嘩が絶えないことは本当に無意味です。なぜかというと、成果が大きかろうが小さかろうが、救い済度する衆生にとってみな効果があるのであって、やるだけの価値があるからです。このプロジェクトにいるということは、きっと私の修煉にとって最も良い按排なのです。自分の感情や好き嫌いのために、師父の按排を変えてはいけないのです。
同修を含め、ほとんどの人は私に対して、「温和な人」という印象を持っていますが、実際は、私は家族に怒ることもあるし、自分の意思にそぐわないことに対しては、利己的な一面もあります。ただ、よそではそれを隠して良好なイメージを維持しています。除去していない執着心は家族の前で現れるだけでなく、忍耐が限界になった時、または隠しきれない時に、今のプロジェクトの中でも全面的に出てしまったのです。闘争心、恨む心、疑心、嫉妬心などによって、同修たちと激しく衝突してしまい、私の修煉は本当に未熟だったのです。
私は子供の時に法を得ましたが、ずっと着実に修煉していませんでした。私はただ、周りの人たちに表面では友好的であり、他人は私の上辺だけを見ているだけで内心は見えないのです。私は多くの問題を隠していただけで、表には出してはいなかったのです。今のプロジェクトの試練を通して、私の修煉状態は、以前よりしっかりしたものになりました。同修たちの様々な言動は、私を向上させるために現れたものだと、やっとわかったのです。同修たちに感謝して、「今の環境を大切にしないといけない」と思いました。
同修と付き合っていく中で嫉妬心を除去
ある日、私との間で不快な摩擦があった同修Aさんは、ネットミーティングの時、同修Bさんにひどいことをされたと長々と訴えました。私もミーティングに参加していたのですが、Aさんの話を聞きたくないため、その場を離れました。私は、「以前Aさんは、私にひどいことをしたので、やっと今日、人にやられたことの辛さを、彼女も味わっている! これは彼女を向上させる機会ではないか、良いことではないか! いつもは私がトラブルに遭って、向上させられているので、今回は彼女の番になったのだ…」と考えました。その時、師父の写真を見ると師父はとても深刻な表情をされていました。
私は、「Aさんに対して、恨む心と嫉妬心があり、更に同修がトラブルに遭ったことをこっそりと喜んでいる。また口では慰める言葉を言っている、これはどんなに狡猾で偽善的でしょう! 修煉者は真・善・忍を修めますが、この問題において、私は真も、善も、忍もできていない」、そう思うと落ち着かなくなってしまい、また戻ってミーティングに参加しました。
関を乗り越える時、学法する時にも、師父のお言葉によく気づかされるようになりました。「修煉するにあたって、具体的なトラブルに対処する時、誰かに辛く当たられたりした場合は、たいてい次の二つの状況が考えられます。一つはおそらく前世にその人に対して何か悪いことをしたのかも知れません。あなたは、『どうしてわたしにこんなひどいことをするのだろう?』と言って心のバランスをくずすかも知れませんが、しかし、あなたはなぜ前世でその人にあんなことをしたのですか? 『あの時のことは知らない。現世は前世と関係ない』とあなたは言うかも知れませんが、そういうわけにはいきません。もう一つは、トラブルの中に業力転化の問題が絡んでいるので、具体的に対処する時、われわれは大らかな態度を保たなければならず、常人と同じようにしてはなりません」[1]
Aさんに辛く当たられたのは、前世に私も彼女に対して何か悪いことをしたからかも知れません。現世で幸いにして法輪大法を得たのですが、しっかり修煉しなかったら前世の苦労などは無駄になるのではありませんか。
実は、Aさんは私の鏡のようなもので、Aさんの強い性格が気に入らないため、心の中でAさんに抵抗していたのです。実際、私自身も強い性格の持ち主であって、Aさんに譲ったり、Aさんのために思いやることもしていないのです。こう考えると、私は彼女以上に執念深かったとしか言えません。時には、Aさんは自分より修煉状態が良いと思って嫉妬心も生じたりして、こっそりAさんに非協力的な態度を取ったりしていたのです。私がやるべきことは、自分を低くして、同修に対する観念を捨て、皆に協力して、仕事に余計な邪魔を招かないことです。
安逸心を除去
私は寝不足になると、次の日はきちんと仕事ができないのです。寝る時間が少ないと「仕事中きっと疲れを感じるだろう」という強い観念を持っていました。私が住んでいるアメリカ西部では、1日4回の全世界同時発正念のうちの1回は、冬時間の深夜2時 (あるいは夏時間の深夜3時)になるので、私はほとんど起きられませんでした。発正念をしなかった朝はよくめちゃくちゃな夢を見ていました。空間場を浄化していないからだと思いましたが、ずっと悩んでいました。
ただ、睡眠時間に対するこだわりは、最近、意外にも改善されたのです。ある日、仕事が忙しくなかったので気持ちよく3時間も昼寝をしました。起きたら日が暮れており、「どうしよう、その日の学法も煉功もまだやっていない!」、ようやく学法、座禅、動功の第一、第三、第四をなんとかしましたが、深夜12時過ぎになった時点で、まだ第二功法をやっていませんでした。そのころは第二功法をずっと1時間していたのですが、「そうだ、今日は30分だけやろう、そうしないと睡眠時間が足りないと明日疲れてしまう」と思いました。
私は、30分の法輪樁法をし、1日の「任務」を遂行したように、満足してベッドに横になりますが、どうしても眠れなくて、心も落ち着かなくなるのです。「やはり法輪樁法を1時間やらないからだ」と思いました。そのまま横になっていても時間の無駄なので、私は起きてまた1時間の法輪樁法をしました。そして夜中2時の発正念をしてからベッドに上がりました。このようなことは、今まで何回もありました。五つの功法を全て終えないと横になっても眠れなかったのです。
自分の体は心に従って、そのような状態になったのかもしれません。以前の私は、ほとんど煉功していませんでした。今は修煉が終わる日が迫ってきており、時間がもうないので、欠落した煉功の部分も追って補わないといけないのです。また私はこんな妙なことに気づきました、日中1時間多く寝てしまうと、夜は必ず何らかの理由で睡眠時間が1時間少なくなってしまうのです。まるで1日に何時間寝られるかは、決められているかのようです。しかし、睡眠時間は以前より減ったのですが、昼間に疲れを感じないのです。これはきっと、師父が体を整えてくださった後に現れた状態だと思いました。法理に従って修めれば、以前の古い観念をつかむ必要はなく、師父は大法弟子の体を最高の状態に調整してくださるのだと悟りました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』