中国人民解放軍軍需大学の楊貴遠博士が受けた迫害(一)
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 【明慧日本2022年4月7日】私の名前は楊貴遠と言います。1964年9月19日に内モンゴル自治区烏海市生まれで、子供の頃から健康的ではなく、体はやせ細っていました。様々な運動をしていましたが、効果は明らかではありませんでした。1981年9月より内モンゴルジェリム牧畜学院で獣医学を学びはじめ、1982年から気功に触れ始めました。効果が非常に良かったので、ずっと続けて来られました。1985年9月に大学を卒業後、吉林省長春市にある人民解放軍獣医大学の中医獣医学修士課程に受かり、同時に軍隊に入隊することになりました。修士号取得後、人民解放軍農畜大学(旧獣医大学)動物医学科の中医獣医学教育研究部門の教員として残り、獣医学部学生の授業を担当し、獣医臨床および科学研究業務に従事していました。この間、多くの賞を受賞し、1993年から1994年にかけては、大学の優秀教員として表彰されました。

 1996年8月、広州の第一軍医大学で病理生理学の博士号を取得しました。幼少期から北方で暮らしていたため、亜熱帯に位置する広州に来たときはとても居心地が悪く、体調も崩してしまいまいた。そのため、さらに有効な気功を求めて、97年11月、第一軍医科大学で法輪大法に触れ、著書『轉法輪』を読んで、一瞬にしてその魅力に引き込まれました、自分が長年気功鍛錬における疑問が解決され、気功が修煉であること、さらに高い理が含まれていること、なぜ良い人でいなければいけないこと、如何にして良い人になることなどがわかり、人生に新たな認識をもたらしてくれました。それから大法修煉の道を歩み始めました。毎日、煉功点に通い、本を読み、短期間で体質が大幅に改善されました。「真・善・忍」の基準に基づき、自らを律し、人とトラブルになった時は、まず自分のことに何か良くないところがないかと思い返すようにし、なるべく穏やかな心で対処するようにすれば、気分がすっきりして、和気藹々となりました。私が博士課程を無事に修了し、予定通りに卒業できたのも法輪大法を修煉したおかげだと言えます。

 1999年7月に、私は博士課程を卒業し、人民解放軍軍需大学(旧「農畜産大学」)に戻りました。

 大学の職員による強制退職、再就職企業への脅し

 その直後、1999年7月20日、(当時の中国共産党党首)江沢民が法輪大法と法輪功学習者(以下、学習者)に対する全面的な弾圧を開始し、現代メディアを利用して、デマを仕掛け、法輪大法とその創始者を悪質に誹謗中傷し始めました。大法と学習者を「悪魔化」し、「無知化」することで、政治運動でいつもの手口を使い、真実を知らない人々を扇動し、法輪大法と学習者を憎み、差別するように仕向けたのです。軍需大学もこれに追随し、法輪大法への迫害を開始しました。私に修煉を放下させようと、教学研究科の党支部会議が開かれ、教学研究科の政治委員と学校の党書記(張西臣)が何度も私に話を持ち掛け、学校の休み期間にも頻繁に家に来ては話をし、「法輪大法の書籍を回収し、でないと家宅捜索だ」、「法輪大法を諦めなければ解雇する」などと脅され、私や家族に大きな精神的プレッシャーを与え、それは日常生活に大きな支障をきたしました。私たちは仕方なく、しばしば彼を避けようと外出していました。

 私が言う通りに従うわないのを見て、軍需大学の政治委員である奉国権が再び私に話しをして、99年9月17日に私を24時間監視下に置きました。私は家を出て別の部屋に住まわされ、毎日大学の幹部が1人24時間付き添い、夜にはさらに学生2人が交代で監視するようになったのです。食事の時も家に帰れず、監視役の幹部に付き添われて学食に行くしかなかったし、家に物資を取りに行くのも付き添われました。このことは学校中に知れ渡り、妻の勤める会社にも噂が広がり、私たちは話題の中心になり、さらに精神的なダメージが大きくなり、親族や友人にも心配をかけることになりました。

 軟禁期間中も、定期的に談話を持ちかけられました。最終的には、私は党籍の除名、学校から退職させられました。私は3カ月以上不当に拘禁され、学校を去るまで請願しないことを約束させられ、教学研究室の担保の下、99年12月21日にようやく家に戻って手続きの結果を待つことが許されたました。その結果、2000年8月に退職させられ、手当をもらって転職せざるを得ませんでした。私は自ら党籍脱退を申し出たが、除籍という処分を受けました。

 2000年4月、私は長春力帆医薬有限公司の医療部門に就職しました。2000年10月、軍大学の組織部は私が働いている会社を知り、2人を会社に行かせ、私が学習者であることを知らせ、会社に責任を取らせると脅迫したので、私はやむを得ず、会社を離れ、職を失なったのです。

 2000年11月26日、私は北京に陳情に行き、天安門広場に行って「法輪大法は素晴らしい」と書かれた横断幕を掲げました。その日、公安局に連行され、尋問されたときに名前と住所を教えなかったので、当日に北京密雲県拘置所に送られ7日間拘束された後釈放されました。地元に戻ってしばらくして、私が北京に陳情に行ったことが地元住民委員会に知られ、それが不利に働くかもしれないと聞き、2001年2月14日に居住地を離れ、広州で部屋を借りて暮らさなければならなくなりました。

 中国の大学や科学研究機関などの大きな機関はほとんどすべて国有で、人事部門が人事の手配や異動、個人プロフィールを管理しているため、私の履歴には、法輪大法の修煉を理由に退職して元の機関を去ったことが記録されており、これらの機関で働くことはもはや不可能です。広州の就職説明会に何度も参加しましたが、非国営中小企業は応募者の個人プロフィールを見る必要がなく、募集している専門職のほとんどが高学歴を必要とせず、年齢制限のある企業ばかりで、就職に有利な条件がなく、1年近く広州での就職ができませんでした。

 広州市白雲区で610弁公室の人に不当に逮捕され、その場で偽の証拠が作成された

 2002年2月8日23時頃、広州市白雲区永泰村の借家で寝る準備をしていると、ドアをノックする音が聞こえました。ドアを開けると、大家夫婦と4、5人の成人男性が入ってきて、現地公安の人員だと名乗り(後でその人たちが610弁公室の人員だとわかった)、何も提示せずに旧正月前の検査と言って、私の部屋を勝手に捜索し始めました。部屋にある法輪大法の書籍と資料を見つけて、すぐに私を連行して、その内の1人がもう1人に「戻って捜索令状を作ってこい」と言いました。 私がパソコンとプリンターを持っているのを見て、すぐにパソコンの使い方を知っている人を呼び、電源を入れ、法輪大法の内容が入ったDVDを入れて、操作させられ、写真を撮られました。

 私が協力しないと、彼らは勝手にDVDを開き、パソコンの横に法輪大法の本や資料を置いて写真を撮りました。数時間後、パソコン、プリンター、テープレコーダー、IDカード、学位証明書、銀行通帳などを押収されました。紙に、勝手に持ち去ったものをメモし、サインを求められました。持ち去るものを詳しく見られなかったため、サインはしませんでした。彼らはお金は取らないと言って、見つけた現金2700元は渡されましたが、他に家にあった6千元以上の現金は見ていないと言われました。2月9日早朝に簡単な取り調べを受けた後、再び手錠をかけられ、パトカーで広州の白雲区支部に連れて行かれ、さらに取り調べを受けました。彼らの指示通りに、広州の他の学習者に関することを漏らさなかったため、私は寝させてもらえませんでした。2月11日の朝、広州の白雲区拘置所に送られるまで、警官は2人ずつ交代で取り調べを行いました。

 旧正月は2月12日で、旧正月後数日のうちに、彼らは再び拘置所に来て尋問をしたが、失敗に終わりました。3月初めのある晩、再び取調室に呼び出されました。給水器まで用意しており、それからは、2人ずつ4交代で8人を手配し、坐るか立つかのみで、寝ることは許されず、ひたすら尋問を続けました。 そのうちの1人、葉という苗字の人は「拷問をするわけではない、人が何日寝ないでいたら限界に達するか、お前は医学専門なら知っているだろう」と言いました。私の「眠らせないというのは、拷問にあたらないのか」という質問に彼は答えませんでした。

 数日後、両足が腫れ上がりました。そのうち2人は、取調べの際に特に邪悪で、嫌味を言い、侮辱し、私が目を閉じようとするのを見るや否や、立てと怒鳴り、1人はひまわりの種の皮を私の顔に吐きつけ、頭に水をかけ、歯を食いしばって私の顔の左頬を殴り、左大腿部を蹴ってきました。当時、私を地面にたたきつけた後、「本当は殴りたくない、殴ったら全く耐えられない」と言っていました。また、法輪大法の創始者の名前を紙に書いて、私に座らせ、座らなければ立ちっぱなしにさせられました。こうして7日目の午後まで続いた後、彼らはようやくあきらめて私を独房に戻し、そこで監禁が続けられました。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2004/8/11/81490.html)
 
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