「苦を嘗める」について
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2022年5月27日】今日は午前中、用事があって外出していました。ちょっと暑かったので、近くの店で緑豆スープが飲みたくなりました。しかし店に入ると突然、「私は20年も修煉していながら、まだ自分を律することができない。いつも口実を探しては自分の欲望を満たしている。今は法を正すことがすでに人間の次元に移行し、目の前に来ている。それなのに私はずっと食に対する欲望やいろいろな執着を取り除いていない。一体なにを修煉しているのだろうか」と考えました。

 自分を律することができないのは、私の大きな問題の一つです。ずっとマイペースです。自分を律することは、苦を嘗めることでしょうか?

 以前、私は常に「苦を嘗めることができるようにする」と自分に言っていました。しかし、その苦は、肉体の苦、苦労の苦に限ります。実は肉体の苦にしても、苦労の苦にしても、私はしっかり行っていません。もちろん苦の範囲はとても広く、私の不機嫌な考えや、行動などはすべて苦なので、「我慢」すること自体も苦を嘗めることです。食の欲望を取り除くことは、苦を修めることだと思います。こう考えた私は、落ち着いてその店から出て来ました。

 用事は順調に運ばず、帰るとすぐに親が私に聞いてきたので、私は「出来ていない」と答えて、いろいろ文句を言い始めました。しかし親はそれを聞いても、どうすることもできません。私はまた後悔しました。何故文句を言うのでしょう?

 私は小さい頃から、外で何かあると親に訴える習慣がありました。そして親から慰めと同情を得て、自分がどのぐらい苦を嘗めたかを話します。ずっとこうした執着心があることを重視してきませんでした。今こそ我慢して何も言わないようにし、自分の気持ちを晴らさないようにするのは苦の一つです。私は、この苦を必ず嘗めることができるようにしようと考えました。このことに気づくと、私は少し気持ちが楽になりました。なぜなら、このことを重視すると修めることになり、この執着心を取り除くことが少しずつできるようになるからです。

 これは私の今の次元での悟りです。もし不適切なことがあれば、ぜひ慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/5/22/442537.html)
 
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