文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年8月6日】まさか修煉24年目を迎えた私に、「褒められる」ことの落とし穴が待ち受けているとは、想像もつきませんでした。 その時の様子をお話しします。
過去20年間、私は大法の修煉をしているため職場での評価は悪く、昇進を拒否され、昇給は最下位という「見えない迫害」を受けてきました。そのため、私は積極的に仕事をしたり、人前に立ったりすることはありませんでした。
今年になって、突然新しいリーダーで、しかもとてもパワフルな人に変わりました。私は「見えない迫害」が、「見える迫害」になるのではないかと心配しました。そこで私は、新しいリーダーの前で、自分が役に立つ人間であることを見せつけようと考えました。
私はわずか数カ月で、会社で一躍脚光を浴びることになりました。 研究、インフラ、リフォーム、教育など、まるで会社のあらゆることが私に委ねられ、すべてが私の決定を待っているかのようで、その状態がしばらく続きました。 それに伴い、周囲の同僚たちの態度も変わりました。親しげにしたり、遠慮がちになったり、お世辞を言ったり、そして媚びるようにもなりました。20年目にして、私はかつてないほど褒められたのでした。
私は大法弟子で、師父の「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」[1]という教えを分かっています。
これらの「しきりに褒められる」は、私にとっては試練だったのです。
しきりに褒められた私は、以前よりもはるかに多くの仕事を引き受けることになり、多くの時間をとられてしまい、終業してもゆっくりできませんでした。
しきりに褒められたため、私の周りの人間関系は復雑になってしまいました。嫉妬する人、媚びる人、笑う人、お互いの腹を探ったりしました。
私の心はすっかり浮かれてしまい、名利心、顕示心、虚栄心、嫉妬心、あら探しをするなどが現れました。
私は同修に相談しました。同修は「あなたは、邪悪を見抜く眼力を持たなければなりません。これは『落とし穴』です」と言いました。
常人には「褒め殺し」という言葉があります。これはもちろん「落とし穴」ですが、この「落とし穴」は、私のどの心にかかっているのでしょうか。それには原因があるに違いありません。私は何日も何日も、内に向けて探しました。
同修の協力を得て、層と層に隠れたものを取り除き、ついに、その根に辿り着きました。
私はこれまで、自分は「能力が高い」と思っていました。 以前は「私には能力があるのに使わせない」という「見えない迫害」からくる憤りから、仕事への意欲が湧かなかったのです。 その後、仕事に積極的になったのは「私は有能だから、迫害してはいけない」という「交換条件を出したい」という思いがあったからでした。
この「私は有能だ」という強い心は、「それを見せつけたい、評価されたい、認められたい、証明したい」と思っていたのです。 時間が経つにつれて、この心が障壁となり、困難となり、「落とし穴」を招いてしまったのです。
幸いにも師父がいらっしゃり、法があるのです。最終的に、それを識別することができました。「大根を抜いて泥を出す」のように恐怖心、怨恨心、嫉妬心、顕示心、その他多くの執着心をさらけ出しました。
それは、決して無駄なことではありませんでした。 師父は「私がいつも言っていることですが、大法を学んだら、良いことにあっても悪いことに遭っても、皆良いことです」[2]と説かれました。
私は交流文章の中で、このような難関を見たことがなかったので、気づいてもらえればと思って書かせてもらいました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」
[2] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』