伝統に戻ることについての認識
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文/中国の青年大法弟子

 【明慧日本2022年6月23日】現代の行動観念に関する師父の説法を読むたびに、私はこれまで真剣に自分と比較したことはありませんでした。 自分には、師父が語られたほど大きな問題がなく、常人ほど明らかな変異的な観念や行為もなく、よく修めていると思っていました。しかし、少し前に起こった出来事で、実際に、私には現代の行動観念がたくさんあり、自分の考えが間違っていることに気づきました。そして、伝統に戻る大切さを認識することができました。

 私の母も法輪大法を修煉しています。ある日、私は母に「なぜお父さんとお母さんは、食事をするようにと私を呼ぶ時、私がすぐに応じないと、怒るのですか?」と聞きました。これは、長い間理解できなかった質問でした。私はさらに「お腹が空いていないから、この時間に食べたくないのに、どうして一緒に食べなきゃいけないのですか? 私には自由を選ぶ権利もないのですか?」と質問しました。母は「親があなたのために料理を作って、食べに来なさいと言うのに、それでも来ないの? 」と言いました。私は「では、自分で料理をすれば良いのでしょう? それならば、食べたくない時には、食べなくてもいいのでしょう?」と反論しました。 母は私の言葉に困惑した様子で「伝統的な家庭の観念は普通こうなの!」と言った後、何も言わなくなりました。 私は母の答えに理解できず、自分の言う「自由」を追求することは間違っていないと考えていました。

 翌日、会社から帰宅する途中、前日の質問が頭の中で繰り返して浮かびました。どう考えても理解できなかったので、諦めました。家に帰った後、読み終わっていない師父の各地での説法を続けて読もうと電子書籍を開くと、なぜか、師父の詩『洪吟六』が開かれました。私はそのまま真剣に読み始めました。

 最初の詩の最初の言葉として「五千年の文明は、天に帰る大道」 [1] と書かれていました。それを読んだ時、心の奥底に響くように感じて驚き、もう一度読み返しました。「『五千年の文明』は伝統文化であり、伝統に戻らなければ、天上に戻ることはできないのだ」と突然気づきました。以前、『洪吟六』を読んだ時、これらの詩のほとんどは、歌詞として常人に書かれたものだと思い、真面目に勉強しませんでした。師父がいつも私たちに真剣に学法するようにと求めらる理由を、今日初めてより深く理解しました。

 私は真剣に読み続けました。今回はいつもと違って、一節を二度読みして、ペースを落としました。師父が弟子たちに啓示されようとした法の意味を考えながら、ゆっくりと読んでいました。数十分間で約10頁しか読んでいませんでしたが、大きな収穫を得ることができました。師父の詩は、私の質問に直接答えてくださいませんでしたが、私が言及した「自由と権利への追求」は、実は近代の行動観念の一つであることだと分かりました。これは、法の中に溶け込んだ後得られた答えでした。私は母に新たな認識を話しました。母は「あなたが真剣に学法をしていたので、師父はその次元の法理を悟らせて下さり、あなたの質問に答えて下さったのです」と言いました。

 現代の中国人が主張する自由は、近代西洋文明から学んできたものですが、現在は「好きなように」、「我がまま」の代名詞になっています。 つまり、自己中心的であること、自分の思い通りに行動すること、傷つけられたくないこと、また、他人の考えや感情を無視することなどです。この利己的で自分勝手な考え方は、中国の古くからの伝統的な価値観に反し、師父が教えてくださった「まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」 [2] に符合していません。ですから、大法弟子として、師父の要求に従って、このような現代の変異的観念を捨てなければなりません。

 このことから、常人の中でよく言われている「親は子供を教育する時、命令式な口調でしつけるのではなく、対等に、友達のようにコミュニケーションをとって話をするべきだ」という言葉について考えました。この種の「平等」は、決して現代の観念の年輩者と若輩者を同じように扱うことではないと思います。 子供である以上、友人という立場で親に言いたい放題にしたり、親を同世代の友達と見なしたりしてはいけません。子供として、どんな時でも、自分の親を尊敬しなければなりません。現代の観念における親と子の間のいわゆる「平等」もまた、変異的な現代の行動の観念になります。

 古代中国の伝統的な価値観では、子供として親や年長者を尊敬しなければなりません。たとえ両親が何か間違ったことをしたとしても、大声で反駁することはできません。『弟子規』には「親が過ちを犯した場合、子は親切にやさしく忠告して直させるべきです。受け入れてくれない場合は、さらにやさしい態度で説得します。それでも親が耳を貸さなければ、子は悲しく泣いても、親に懇願する必要がある」と書かれています。たとえ親に怒られ、殴られても、悔いも怨みもありません。

 中共の邪悪な党文化の影響と、変異的な現代の行動観念に浸透されている今日の子供たちにとって、このような古くからの教えは、現実の中では無視されています。また、大法弟子の子供たちの中には、常人社会に汚染され、自分たちの手に負えない人もいると聞きました。学法をする中で、救われた常人でさえ、未来にとどまるためには、伝統に戻らなければならないと分かりました。

 師父が『洪吟六』で「現代の行動観念」に言及された回数は驚くほど多く、常人への切実な期待と、大法弟子への高い基準が伝わっています。師父は、世の人々のため、さらに弟子たちのため、本当に心配して下さっていると感じました。私は、自身に存在する現代の行動観念をもっと早く見つけ、それを取り除き、伝統に戻りたいと思っています。そして、大法に従って自分を厳しく律し、すべての観念と考えを正し、師父の慈悲なる救い済度に応えたいのです。

 以上はこの段階での認識ですが、正しくないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟六』「生命のために歌う」
   [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】  

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/6/15/444672.html)
 
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