法の要求を満たしてこその発正念
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2022年7月9日】私は以前、「発正念をすると、よく身体が熱くなり、強いエネルギーを感じる」という同修に憧れていました。と言うのも、私自身はほとんどそんな体験をしたことがありません。同修たちは明慧ネットの要請に応じて、広範囲にわたって邪悪を見つけ、取り除いていました。地元で何か起きた時も、簡単な一念を加えるだけです。私のように、ただ地元の出来事のみを対象とする正念を発してはいません。以前に同修から指摘されていたのですが、私は真摯に受け止めず、 自分の発正念は自分自身と地元の安全に限られていることを心で実感していませんでした。それで発正念にエネルギーを感じられなかったり、居眠りしたり、あるいは疲れを感じてしまうのです。

 明慧ネットには、このテーマにまつわる同修の交流文章がかなり掲載されています。 私は発正念の口訣にある「含まれないものはなく、漏れるものはありません」[1]という言葉を忘れ、自分の認識を法より上に位置づけていることに気づいていませんでした。しかし同修との交流で、私は自惚れて勝手に自分の主張を法に付け加えていたことに気づかされました。実際、私が加えたものは自分への迫害を避けるためのものであり、利己的なものです。自分の考える能力を制限してしまうもので、身勝手で、範囲の狭いものが多いのです。よく考えてみれば、これでは本当の正念とはいえません。

 ようやく今になって実感したことですが、法の要求を満たさないと発正念が上手くいきません。具体的には、まず一つ目として邪悪を大規模に取り除く事が大法弟子の使命と責任であり、大規模に邪悪が取り除かれる過程で衆生が救われる必要があります。二つ目は、正念は他人のためであって、自分のためではないということです。もし発正念の対象範囲が小さく、あるいは地元の大法弟子が迫害を受けないためのものに制限するのであれば、それは自分本位であり、正念の威力は弱まります。もちろん、特殊なケースとして個別の緊急問題にはよいのでしょうが、長期的なものとしては適していないと思います。常に自分を大法弟子という全体の中に置き、 法に則って初めて法にある強い力を駆使することができるのです。 実際「含まれないものはなく、漏れるものはありません」[1]という言葉を念じた後は、法から修め得た神通力はすべてを把握しており、地元の邪悪も一掃されるのです。 今、私は明慧ネットにある発正念の要請に従って実行し続けていますが、直ちに状態が変わり、発正念の時にぼんやりする事も改善され、エネルギーを感じ、熱く感じるのです。

 また、正念を発することは厳粛かつ神聖なことであり、特別な場合を除き、普段から発正念をする時には大法の要求に則った座り方、正しい姿勢を取らなければならないと気づきました。 明慧ネットに掲載されている師父の発正念の写真は、私たちが発正念するときの姿勢について法が要求しているものだと理解しています。 私見ですが、体と首がまっすぐで、背中もまっすぐで、片手で立掌するときに胸の前で手のひらがまっすぐで、大きな蓮の手印を作るときに蓮の手形で十本の指をなるべく大きく広げて、両腕を強く上げると良いと理解しています。しかし自分の発正念の様子を思い浮かべて見ますと、 背中を丸め、物に寄りかかる、あるいはとても柔らかいソファに座る、背もたれに寄りかかるなどして頭がボーっとしていては、正念を発することができないと思いました。また他の同修を見ていますと、掌が倒れたり、居眠りする状況も深刻だったことを思い出します。正しい姿勢でなければ、正念に思うような効果がないことは明らかです。

 執着や欲望などの妨げを取り除き、自らを浄化して、初めて実効性ある正念を発することができるのです。

 振り返ってみると、私は心性の関を乗り越える時に人心に振り回され、怒り、反省ができず、清浄心を保てないことがありました。そうした時は、まさに正念を有効に発することができませんでした。このことにようやく気づくことができました。また、その他に気づいたこととして、発正念するときにぼんやりするのは、自分の修煉状態が何らかの影響を受けているのです。例えば、退屈してインターネットで常人の動画やニュースを見たり、あるいは常人の音楽に聴き入ってしまい、それに合わせて鼻歌を歌ったりすると、影響を受けてしまいます。これによって正念を発するときにぼんやりしてしまうだけでなく、学法の時にもぼんやりするのでした。インターネットを長時間閲覧して、いろいろな情報や国際情勢、社会情勢に振り回されて心が動かされ、正念を発するとぼんやりする状態に陥りやすくなります。

 以前はこれらを些細なことだと思っていましたが、今は問題の深刻さを認識し、それらに対する依存や欲望、悪い習慣を排斥して取り除き、大切な時間を無駄に使わないよう、自由な時間にはできるだけ法を学び、法を暗記し、発正念するように心がけるようになりました。 すると、自分の意識はどんどん清浄になり、益々法を学びたくなり、正念をもっと発したいと思うようになりました。

 また、長い間、自分自身を清めることに注意を払っていなかったことにも気づきました。発正念の最初の5分間は雑念が多く、その短い5分間でいろいろと考えてしまうことが多くて、時間が瞬く間に過ぎてしまいます。発正念を始める鐘の音を聞いたとき、ようやく自分を清める前に時間が過ぎていることに気づくことがよくあるのです。私は長い間、きちんと自分を清めることができなかったために妨害が多く、正念に全く効果がないのです。 これは、私が最近になって発見した問題です。 私が長い間、発正念するときに居眠りしたり、掌が倒れていたのは、こうした理由があったのです。今まで長きにわたって、正念を発する中で修めて来ませんでした。しかし、認識できた様々な原因を正すことに気を配るようにしてから、発正念のときにぼんやりすることや、掌が倒れる事がだんだん減りました。このまま続けていけば、どんどん良い循環の軌道に乗ることになると思っています。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「論語」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/6/10/444723.html)
 
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