【ヨーロッパ法会】 仕事における修煉の機会に感謝する(一)
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 文/ドイツの大法弟子

 【明慧日本2022年10月4日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 メディアでフルタイムで働くようになって以来、私は記者や映画編集者、報道担当、作者、法律相談など、さまざまな仕事をしてきました。これらの仕事とそれに伴う課題は、常に私の修煉と密接に関係していると感じていました。と言うか、なすべき仕事をこなす過程で、私はいつもタイミングよく自分の執着を見つけることができ、それによって、やるべき仕事を確実に成し遂げることができたのです。

 そして仕事のどの段階においても、執着と自我を放下できる機会がありました。例えば、仕事は新しい任務が発生する段階、その任務を実行する段階、そして最後にその任務に対し責任を負わなくなる段階の三つに分かれます。デイリーニュースキャスターとして務めていた頃の経験を例に説明したいと思います。

 デイリーニュースの司会者としてカメラの前に出られないかと打診されたとき、最初はあまり気が進みませんでした。毎日、カメラの前で良いイメージをキープし、常に上品さを保たなければならないことを考える中で、私の心地よさに対する執着が露呈されました。また、私は自分の恐れる心や、メンツを重んじる心も見えました。良くできなければ、皆に見られてしまいます。恐れる心が一番のネックで、他のメディアと視点が異なる論議を呼ぶようなニュース内容を報道すれば、カメラの前に出ると、敵視や誹謗中傷に晒されることを恐れていました。これが私への試練であり、この恐怖を克服するには、師父を堅く信じ、同修たちを信頼することが必要で、彼らも大法を修めているので、ニュース内容もきっと大法に沿うものだと考えました。

 修煉は私の日課です。時間的には、この仕事は私の他の仕事に余計なプレッシャーをかけることにもなっていました。たとえばある日、あるいはある段階において、私の修煉状態があまりよくなくても、できるだけカメラの前では最高の状態を見せようと、自分に言い聞かせていました。状態がよくないとき、良いイメージとパフォーマンスを維持しながら、心を込めて一つ一つの番組を収録することが、私にとっては挑戦でした。また、他のことをする時間もほとんどなくなりました。状態がよくないときでも仕事はできます。カメラの向こうには大勢の衆生がいて、私は番組を通じて彼らと前向きに、ポジティブにつながっているのだと思っていました。

 しかし、大手テック企業の妨害によって、われわれの番組がこれ以上利益を上げることができなくなり、同時に視聴者も少なくなったため、メディアの継続が難しくなったと言われたとき、私はそれが修煉の機会だと思いました。緊張の日々が緩和され、時間的ストレスから解放された私はさらにリラックスできるようになった一方で、毎日ネット上で見られなくなると思うと、何となく落胆した気持ちがあって、それが名利に対する執着だと気づきました。何しろ、ニュースキャスターになれば名声を得ることができ、私のことを知っている人がたくさんいて、「あら、あなたを知っています。テレビであなたを見たことがあります」と言われたこともありました。仕事がなくなった今、私は自分の番組が高い視聴率を有し、私自身も有名になることをどんなに望んでいたかが分かりました。

 そこで、私は仕事の各段階で起きていることはみな、私の修煉に役立つものだとはっきり分かり、自分の執着がその中で露呈され、取り除くことができたのです。

 怨む心を取り除く

 新しい仕事では、私は社員とのコミュニケーションに追われていました。

 電話を手に取って誰かと話していると、自分と意見の異なる人たちが常に会社で起きていることについて不平を言っていることに気付きます。それに影響されて、私も機嫌が悪くなりました。なぜ他人があれこれについて文句ばかりを言っているのかと自問しつつ、私はとても強いネガティブな態度を取るようになり、解決策を考えようとはしませんでした。

 心に嫌悪感と反感が現れたとき、私は緊張し気重になり、通話し続ける気もなくなりました。その瞬間、自分がいかに他人に自分の感情や置かれている状況に左右させているのかが分かり、心が重く、さらにネガティブになりました。そこで、「どうして他人に左右されることを許したのか、そして、それが自分が直面している不満とどう関係しているのか」と考えました。

 その直後、私は他人が鏡であることに気づきました。まず、なぜ他人はいつも私の前で文句を言うのかと考えました。他人があまりにも多くの文句を言っていると、私は常に怨んでいます。これが私の怨む心で、他人ではなく自分自身を修めるべきです。では、どうすればいいでしょうか? 私は、このような不平不満が事態の好転につながらず、その内容も建設的ではないため、そのような怨みは要らないと考えました。

 そう思った直後、私は心も身も軽くなったと感じました。不満が消えた私は、もっとオープンな心で他人の意見を聞いたり、問題解決の観点から物事を考えたりできるようになりました。

 その経験をある同僚に話していたとき、ドイツ語で「何かについて文句を言いたい」と言ったとき、ドイツ語のその表現がとても的確であることに気づきました。文句を言うと、自分の心身を重くさせます。では、私はなぜそうしなければならなかったのでしょうか? 自分の心を重くさせて、何のメリットがあるのでしょうか? そうしなくても済むはずでした。何の負担もネガティブな気持ちもない状態に入り、正念を持って問題解決の姿勢で前に進むことができたはずです。

 では、なぜ外部の環境によって、自分の境遇を困難にする必要があるのでしょうか? そうする必要はありません。私はこれ以上文句を言うことをやめました。

 もちろん、「言うは易く行うは難し」なのです。日常生活の中でもいかにも簡単に文句を言いたくなる場面に遭遇してしまうのです。しかし、今では私は立ち止まり、「ちょっと待って! 私は文句を言う必要はない、それによって物事を難しくする必要はない」と自分に言い聞かせるようにしています。そうすることで、私はもっと早く物事を処理し解決することができるからです。仕事もポジティブな方向に進みやすくなりました。知らず知らずのうちに文句を言ってしまうことがないよう、同修から気づかされることがあり、感謝しています。

 交流の時、同修と『洪吟六』の『人と己を済度するは難しい』(まだドイツ語に翻訳されていない)という詩を共有しました。

 (続く)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/9/23/449791.html)
 
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