ドイツ法会:偽の自分を放下し、真の自分へ回帰する
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文/スイスの西洋人の大法弟子

 【明慧日本2024年7月2日】師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!

 すべての人生の道が定められているように、私の道もずっと以前に定められていました。ここ数年、法理がますます明確に私の前に現れ、私の理解も深まってきました。

 私は宗教に敬虔な家庭に育ち、毎週日曜日に教会に通いました。何年もの間、宗教的な儀式には従っていましたが、心の中には多くの疑問がありましたが、それに異を唱える勇気がありませんでした。若い頃、私は人生の運命や信仰についても多くの疑問を持っていました。

 宇宙が本当はどれほど大きいのかを想像したこともあります。自分がとても小さく、針のように小さいと想像しました。それなら、宇宙はリビングルームか、それ以上の大きさがあるはずでしょう? もっと大きいでしょう? 街や国や大陸プレートと同じ大きさかもしれませんし、地球よりも大きいかもしれませんし、もっと大きいかもしれません。宇宙は一つしかないのか、それとも複数あるのでしょうか?

 その考えは無限に深く、私の中に深い恐怖を引き起こしました。自分は創世主にとって小さくて価値のない存在なのではないか、創世主は私のような針の先ほどの存在など気にも留めていないのではないか、と恐れました。この考えは後に、自分が十分に重要ではなく、愛されるに値しないという頑固な観念に変わりました。それから数年後の2010年に、法輪大法に出会って修煉を始めてから、私は当初の考え方がいかに自己中心的であったかに気づきました。師父の新経文『なぜ人類が存在するのか』で、目が覚め、自分の傲慢さが見えてきました。

 自我と向き合う

 経文の中で次のように書かれました。「現在、人類社会は成、住、壊、滅の『滅』の最終段階の真っ只中にあります。末後の全てが悪くなったため、滅されることになり、それが原因で現在の社会がここまで乱れてしまったのです。人間に善なる念がなく、性の乱れや心理的な歪み、薬物の乱用、神を信じないなどの乱れた現象が横行していますが、これは天体の末後に起こるべくして起こった現象であり、つまりこの時期に至ったということです!」(『なぜ人類が存在するのか』)

 修煉を始める前、自我(エゴ)は時間が経つにつれ、強くなってきますが、それに気づきませんでした。自分が正しいと確信していました。私の知っている面はますます抑圧され、善から遠ざかり、代わりに自己肯定、名声、自由、楽しみを追求しました。

 大法の修煉を始めたとき、私の人生がどれほど暗く、孤独で、迷い、自己中心的だったかを認識しました。その年月の間、私はたくさんの業力を作り、同時に人、環境、そして自分に対して、強い観念を形成しました。これらの良くないことを真に暴露する力を持つのは大法のみであり、私の業力を取り除くことができるのは師父だけです。

 トラブルの中で修煉の差を明らかに

 最近の修煉の過程で、本当の自分ではないものと、私のレベルでの法理を明確に見ることができ、しかも、実証することもできました。

 3年前、他の修煉者とトラブルがありました。当時、私はあるプロジェクトに数年間携わっていました。 しばらくして、職位が変わり、経営陣を直接サポートしました。昨年、私はこの職位から外されました。 表面的には、トラブルによってそれを失い、より能力のある人に置き換えられました。その時に多くの執着心、怒り、不満、嫉妬、不安、自己不信などが暴かれました。最も根本的なことは、師父の最も重要なプロジェクトに対する信頼を失ったことです。私が疑ったのはプロジェクトそのものではなく、人間レベルでの実行とプロジェクトのコーディネーターのマネジメントでした。この出来事は私に与えた影響が非常に大きかったので、このプロジェクトに参加し続けたいのかどうか分からなくなりました。

 この出来事を振り返ると、修煉者の中で共産主義的な思考と行動(党文化)が見られました。私の職位が公式に取り消される数週間前に、私はこの「党文化」をプロジェクトのコーディネーターに言及しました。以前は、もっとサポートしたいと思っていましたが、自分の役割が抑圧されていると感じていました。私はあまり言わず、協力とは静かに命令に従うことを意味すると理解しました。しかし、私の理解は徐々に変わり、もっと積極的になりたいと思いました。

 しかし、私がコーディネーターと話をしたとき、私の出発点は大法の「真、善、忍」の真理に基づいていませんでした。それは、不満や怒り、他人に指図する態度に基づくものでした。私は以前の関与すべきプロセスに関与できなかったことに失望しました。私の立場から見ると、党文化は明らかで、修煉者たちの態度や行動に反映されています。

 このトラブルの後、私は恨みと失望でいっぱいになりました。一歩引いて物事を理性的に見ることはほとんど不可能で、諦めと絶望を感じました。このプロジェクトに参加する気があるのだろうかと疑問に思いました。

 人間的な感情や見方が邪魔をしていたのです。すべてが修煉のチャンスであることを示していたにもかかわらず、私はなかなか冷静になり、心性を高めることができませんでした。旧勢力が私の最も深く、最も傷つきやすい心を狙っていたのです。

 私は自問し続けました。「私は本当は何のためにこの世に来たのだろう? 私は自分自身を証明するのか、または、大法を実証するのだろうか? 私は自分のエゴを捨て、大法を第一に考えていただろうか?」内面を見つめ、何が起こったのかを探す過程で、私は自分自身を修正し、大法を第一に考えるようになりました。一層一層、自分の次元が上がっているのを感じました。ネガティブでエゴイスティックな物質が強すぎて、引きこもって大法のグループ活動に参加するのをやめたいと思ったこともありました。私の知っている側(神の側)は、常人の考えを繰り返し排除しなければならなかったのです。自分の恨み、欠点、嫉妬を認めるのは、苦しいプロセスです。自分がどこで自分を修めることができなかったのか、受け入れなければなりませんでした。

 この業力を作り上げたのは私であり、その業力と向き合い、消去しなければならないのも私なのです。自分を守りたいという執着はとても強く、他の修煉者を避けたいという衝動に駆られました。

 私は師父の教えを思い出し、「プロジェクトや同修に対する私の消極的な態度は、真善忍に合っているのだろうか? たとえ私が正しかったとしても、それはある一つの次元に過ぎないのではないか?」と考えました。

 やがて、自分のレベルで認識した法理に従って自分を修正しながら、何が本当の自分で、何が本当の自分でないのか、自分を証明するではなく大法を実証するとはどういうことなのかを深く理解できるようになりました。そうすると、私はそこから先に進むことができました。

 師父の啓示に従う

 それからの数週間、師父は私にいくつかのヒントを与えてくださいました。その一つは、修練物語という形で、私の執着の深く隠された根源をはっきりと示してくれました。

 物語には、西洋の神の弟子が、怨恨や不満、疑念、競争心などの自分の執着をはっきりと見せられるという内容があります。

 嵐の中で、神が水上を歩いています。その弟子たちは船に乗っており、ほとんどの人が泳げなかったので溺れることを恐れています。ある弟子は怒りと不満のあまり、神を挑発しました。神なる存在は、弟子が水の上を歩けるようになれば、神であることを信じると言いました。神は、ある条件の下で彼が水の上を歩かせることに同意します。条件はただ一つ、彼は右も左も見ず、波や嵐を無視しなければなりません。彼の注意力は師だけに集中していなければなりません。実際、神は弟子がすべての恐れを捨て、確固たる信念を持つことを望んでいるのです。

 弟子は高い波にもかかわらず船から降り、水の上を歩き始めました。しかし、ふとした瞬間に左右を見ると波が立っています。彼は泳げないこと、そして死ぬかもしれないと恐怖に打ちのめされます。

 その瞬間、彼は波の下に沈み始めます。しかし、神は弟子を見捨てません。神は手を差し伸べ、彼を水から引き上げました。彼の手を握り、船に戻り、彼を慰めました。

 神は弟子が自分を信じない時でも、弟子を見捨てず、常に弟子のそばにいて苦難の道を共に歩んで行きます。その物語を通じて、神の慈悲と愛の深さに気付きました。

 そして、私の幼少期に形成された根深いものが何であるのか、突然理解することができました。師父は「しかし、困難に直面したとき、神に助けを求めたが、満足した結果を得られなかったため、神を恨み、次第に神に反対する方向へと走り、場合によっては魔道に入り新たな罪業を作った人がいます」とおっしゃいました。(『なぜ人類が存在するのか』)

 私は、師父の記事を読むまで、以前の出来事を完全に理解したり対応したりすることができませんでした。私はその弟子のようでした。まだ疑いと深い恨みを抱いていたのです。

 幼い頃に形成した否定的な見方のせいで、私は遭遇する困難などが公正ではないと考えていました。これが私の出発点だったため、すべてが悪くなっていったのです。

 他人が、自分より良く扱われ、私の興味のある職位、自分は「能力」がなく、自分が倍の努力をしなければならなくても得られなかった職位を得たとき、不公平に扱われているように感じました。なぜ他人の方が自分より楽に生きていたり、知識や能力に恵まれていたりするのか理解できませんでした。心の中は不均衡で、羨望や嫉妬の気持ちが湧いてきました。法理は分かっていても、内に向けて探さず、修煉者として起きたことを捉え、向上するチャンスにすることができなかったのです。

 このような観念の結果、私は常にすべてを罰としてとらえ、それが自分の態度や行動の結果だとは考えませんでした。この深い恨みを認識し、師父に心から謝罪し、この旧勢力の按排を拒否したとき、私は心から根本的な変化を体験しました。

 私は、どんなに頑張っても、自分が望んでいた多くのことは達成できないのだということに、ようやく気づきました。それは自分の運命ではないこと、そしてそれを果たすための十分な徳がないからなのだと理解しました。

 前向きに

 多くの重要な問題に気づきました。自分にとっての人生の道において、誰かが私を悩ませる執着や観念を持っていようが、その人の中に党文化があり、それらを認識し、取り除く気があるかないか、そして私に対してどう振る舞おうが、それは関係ないのだということを悟りました。 重要なのは、自分がどのように対処するのか、それが自分にとって何を意味しているのか、そして自分が取り除くべき執着心は何なのか、ということだけです。

 別のレベルでの修煉者や常人が、たとえヒントを与えられたとしても、自分自身の問題を認識するまでは、自分を変えたくないという理由が分かりました。理詰めや情に訴えることによって党文化の思想、行動、執着、見解を排除することは困難であり、命令が修煉者や人を変えることはさらに困難です。

 根本的な変化は、慈悲を出発点として法理を認識することによってのみ開始できます。法理に基づいて交流することで、心を開いていれば、自分の問題を認識することができ、師父はそれらを取り除くのを手伝ってくれます。

 慈悲からの出発点であるとき、生命の本質に触れられます。たとえ私の態度がまだ慈悲深く親切でなくても、真善忍に従わないものをすべて否定し、私の否定的な魔性を養うことを止められます。ネガティブな物質に溺れると、無意識のうちに魔の道を歩み、より多くの業力を作ってしまいます。

 修煉とは、人間として良い生活を送ることでも、健康でいることでもありません。それは、師父と大法を信じ、苦難にもかかわらず、法に同化し、法を実証することなのです。

 この歴史的な時代に、私は大法弟子の栄光を完全に理解できているとは言えないかもしれません。しかし、もう二度と世俗の潮流に流されないと決意しました。私の目は、自分の大法弟子とする責任と使命に向けられるべきです。この過程で、自分自身や他人に対する観念をますます捨て去っていくでしょう。

 最後に、師父の新経文『なぜ衆生を救うのか』の言葉で私の交流を締めくくり、師父に心から感謝したいと思います。

 「彼の愛は衆生への至高の聖恩なのです! 彼に愛されていることは世の人にとってこの上ない幸運なのです!」(『なぜ衆生を救い済度するのか』)

 慈悲深い師父、私の手や同修の手を離さずにいてくださってありがとうございます!

 (2023年ドイツ法輪大法交流会にて発表)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/12/3/468857.html)
 
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