小さいことから他人の為に何をすべきかを悟った
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 【明慧日本2022年11月9日】私が修煉を始めたばかりの時、「心性を向上させる」[1]の章を読むことが好きでした。それは理解しやすく、それに「心性の高さは功の高さ」[1]を知っていたからです。もちろん、その後で、法の全ての章が不可欠であり、同様に重要な章であることを知りました。

 「平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません」[1]。毎回ここを読むと、私は「必ずこのようにしなければならない」と思います。しかし、生活の中で、師父が明言されたとはいえ、やはり完全に行うのは難しいようです。やりたくないのではなく、他人を傷つけているかどうかに気がつかないのです。どうしてでしょうか。

 最近、家で起きた小さなことから「他人の為」に何をするべきかを悟らされました。それは常に「自分のことばかり考えない」事でした。実はこれは発想の転換なのです。

 ある日、母が私に「やってほしいことをやってない」と指摘しました。私は「やったよ」と説明しましたが、母は信じてくれず「嘘をついている」と言いました。私はもう一度、説明しようとしましたが、しかし急にどうして説明したいのか不安になりました。それは人に言われたくない気持ちなのか、あるいは濡れ衣を着せられたくない心なのか。考えてみたらどちらでもなく、それは事実を明らかにしたい心のようでした。

 しかし、同時に1つの疑問が頭に浮かびました。事実を明らかにして何の役に立つのか。他人を傷つけるのではないか。事実を明らかにしてもただ家族の些細な出来事で、他人や私には何の影響もないし、唯一影響を受けるのは母親自身なのです。母だけ「もう年を取ったから物事を覚えられない」と思うかもしれません。それは彼女を傷をつけることにならないでしょうか。私はどうすれば良いのでしょうか。

 母に、「もし私が本当にやってなかったら、私を責めるの?」と聞きました。母は「もちろん」と言いました。私は「次回は気を付けるけど、でもこれはお母さんの恨む心を取り除く為ではないの?」と言いました。母は少し考えてから「そうね。こんな小さな事でも文句を言って、お母さんは恨む心が強いね」と言いました。

 小さなもめごとが心性を高める機会になったのですが、心性を向上させるということは本当に奥深くすばらしいことなのです。

 ささやかな修煉体験ですが、不足なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/4/450590.html)
 
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