文/中国の法輪功学習者
【明慧日本2022年12月9日】明慧ネットで、多くの「怨恨心」に関する修煉体験文章を読んだことがあり、文中で真剣に修煉する同修の態度に深く感心していました。しかし、私自身はなかなか後天的に形成された怨恨心を取り除くことができず、しばしば不満や愚痴を口にしてしまい、その後は思い悩んで悔やみ、修煉がとても苦しいとさえ感じるときがありました。心性を修める努力を続けてきた結果、最近、この方面で新たな突破を得て、自分の限られた次元での悟りを得ることができました。書き出して皆さんと交流したいと思います。
以前の私は、不公平な扱いを受けるとすぐに心のバランスを崩していました。その時「これが不公平な扱いだ」と思い、すぐに心のバランスを取ろうとする心理が背後で働いていたと、今になってやっと悟りました。しかし、この不公平という判断は人間の理に基づくもので、人間の理にしがみ付いているから、憤りから怨恨心が生まれました。つまり、自分は常人という次元の理で善悪を計り、常人の中での心のバランスを求めていて、意識が根本的に常人の理から修煉の理に昇華していませんでした。
修煉の理に沿って考えることができれば、そこから解脱することができ「これは私の向上のために準備されたものだ。あるいは生生世世に造った業によるものだ。あるいは情を取り除くための試練なのだ」と思いつくでしょう。これらの修煉の理で測れば、不公平に思う心や怨恨心が生まれず、心が動じないようにすることもできたでしょう。
これらのことを悟ったとはいえ、この常人の理はすでに私の心の中に深く根付いていて、今後また不公平な扱いを受けると、心のバランスが崩れて、また怨恨心が生まれるかもしれません。そのためには、もっともっと内に向けて探し、心性を修めることにもっと力を入れる必要があります。
そう悟ってから、私は昔のことを振り返り、自分がどういう時に怨恨心を抱いていたのか、一つ一つ真剣に探し、見つけたら排斥することにしました。そして、その時の自分は考えがみな利己的な基点によるもので、自分を傷害から守るために憤っていて、自身を真の修煉者として思っていなかったことに気がつきました。
それ以来、私は一層の殻を破って出てきたような気がしました。再び不公平な扱いを受けた時、自分が修煉者であることを容易に思い出し、心もとても穏やかでした。後にそれらのことを思い出すことも少なく、ほとんど怨まなくなりました。たまにそういうことがあっても淡々としていて、毎日とても平穏に過ごせるようになりました。さらに不思議なことに、身近な常人たちも変わりました。以前ならカンカンになっても変えることができませんでした。自分にそのような執着がなくなったから、その執着を取り除くために彼らが利用される必要もなくなりました。本当に、私たちを取り巻く周囲のすべてが、私たちの修煉のために用意されているものです。環境の良し悪しも、修煉者の状態を反映しています。修煉は本当に不思議なもので、言葉で言い表せないほど素晴らしいものです。