不親切と利己主義を取り除く
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2023年2月15日】私はある現象に気づきました。長年修煉しているにもかかわらず、その善良さが常人より劣っていて、極めて利己的な同修がいる一方で、心優しく、寛容で寛大な常人がいるということです。私自身は、善良さが非常に足りないのです。

 なぜ、このような現象があるのでしょうか? 個人的には、人はそれぞれ根基や育った環境が異なり、幼少期から形成される価値観も異なるからだと思っています。もし自己中心的な価値観を形成してしまうと、それを変えることはとても難しく、形成された利己的な物質は氷山のようで、着実に修めなければそれを取り除くことが難しいのです。

 利己主義や不親切は、宇宙の特性から大きく背離しており、これを取り除かなければ未来に入れないという深刻さを私はますます認識するようになりました。なぜなら、未来の新宇宙は他人のためであり、旧宇宙は自分のためであるため、淘汰される運命にあるからです。この面に取り組まないと、他の部分がどんなによくできていても、重大なもれがあるのです。

 私は次のことを目にしています。一部、精進しているように見えるのですが、深刻な魔難に見舞われた同修がいますが、非常に利己的で思いやりがないのです。修煉は善を修めることを無視することはできないということを、今後の戒めとするべきだと思います。

 一、不親切な行動

 夢の中で同修Aさんに会いましたが、思わず昔の光景を思い出しました。Aさんは偏屈で、自信なさげだったので、私はAさんを見下していました。ある集まりで、私はAさんに冷淡でしたが、同席していた同修BさんもAさんを軽蔑していました。一方、同修Cさんは率先してAさんに話しかけ、その温かさに触れたAさんは明らかに喜んでいました。

 私は自分もBさんも、Aさんを傷つけていたことに気づきました。人はみな相手の心の中の自分に対する接し方を感知できます。実際、Aさんは見下されるようなことはしていなかったし、善良な人間は他人の弱さを思いやる心を持つべきです。そして、私は師父と同修Aさんに対して心の中で懺悔しました。

 昨年のある体験は、私にとって非常に啓発的なものでした。同修Dさんと観点が違っていましたが、自分が正しいと思い込み、常に相手を説得しようとしました。法を学ぶことで、自分の観念があまりにも頑固すぎたこと、人を尊重すべきことを認識し、私はDさんに心から謝りました。

 その頃、私の身体には硬いしこりがあって、数カ月の間にどんどん大きくなりました。Dさんに謝った後、しこりは数日で縮み、やがて消えました。私は不思議に感じると同時に、善の大切さを体験しました。自分の人を見下す態度は人に対して優しさがなく、善が欠けている現れでした。こんなに小さなことが実は小さなことではなかったのです。思い起こすと硬いしこりは、人に対する不親切とも関係していましたが、何カ月間もその原因がわかりませんでした。

 私たちは迷いのなか、さらに旧宇宙の滅の末後時期に、世の中がすでにかなり堕落して、自分もその流れに身を任せていたことに気づきました。自分では問題ではないと思っていたことが、神様の目には大問題に映っているかもしれないし、自分の感覚と神様の基準には大きな隔たりがあるのです。

 過去に何度も、同修の子どもの騒がしさに耐えられず、同修が家で子どもの面倒を見た方が全体に貢献できるのではと思ったことがあります。その考え方は、なんと不親切なのでしょうか。実際、親は子どもが泣くと本当に不安で恥ずかしいし、クレームに出くわすとさらにストレスを感じるので、親身になって理解してあげることが必要でした。

 以前は、一部の年配の同修が長々と発表すると私は不愉快になっていました。その後、失礼な割り込みをしてくる同修もいれば、我慢して対応してくれる同修もいて、その中から優しさの違いを実感しました。老人を敬い、幼子たちを愛するという伝統的な考え方、これらは人間としての基本的なルールなのです。

 中年の同修Eさんは、同修の子供の騒がしさについて「これは同修による環境破壊だ」と強く訴えたことがあります。Eさんは短気ですが、その後、辛い病業を経験し、亡くなりました。年配の同修Fさんは、子どもが泣くと眉をひそめたり、にらんだりして、自分の不快感を現わにしていました。Fさんは見たところ非常に精進していましたが、突然不慮の事故で逝去しました。

 個人的には、子供の騒がしさに不寛容であること自体が深刻な結果を招くのではなく、修煉者の善の心や寛容さが十分ではなく、表面的な西洋文明の基本的なモラルさえも満たしてないと思います。そして、不親切な心はあらゆる形で現れるので、これこそ旧勢力から迫害される原因なのかもしれません。

 二、口を修めない

 私は自分の言った言葉の多くが口を修めておらず「毒舌」であることに気付きました。例えば、理屈をこねて言い争う、あてこすり、話しぶりが辛辣で、いつも自分の気持ちが晴れるようにしゃべり、時には的をえていると思うこともありました。 

 今、私は話す時、口業(くごう)を重んじるべきだと悟りました。古人は話す時3割は自分の中にしまっておけと伝えています。そして、「毒舌」の裏には「毒蛇」がいるのかもしれません。他人を否定的に評価するとき、その場面が大きければ大きいほど、強く言えば言うほど、言葉が巧みで聞き手が納得すればするほど、相手に害を多くもたらすので、与える徳も多くなるのです。

 また「あの人は怠け者だから」、「あの人は口だけで何もしない」、「あの夫婦はよく喧嘩をする」など、同修の間で他人のことを話すのを聞いたことがありますが、私自身も以前はそうで、自分が客観的な真実を語っていると思っていました。

 師父は次のように説かれました。「人の是非をうわさしているとき、神はこのような人をまともに見ようともしません」 [1]

 師父がこの法を説いてから何年も経っているのに、いまだに誰が善で誰が悪かと、人の是非を噂している自分がとても恥ずかしくなりました。以前、私はよく一部の同修に対してマイナス的な評価をするだけでなく、自分からみて良くできている同修を褒めていました。実はこれも人心で、かつ一部の同修を褒めたのはもう一部の同修を際立たせ、彼らに自分の問題を見つめてほしいという狡猾な心もありました。出発点が不親切だったため、なかなかプラスの作用が働きませんでした。

 最近、家族が友人の子どもの背が低すぎるという話をしていたので、私は何気なく「あの子は背の低い遺伝子が強すぎるんだよ」と言ってしまいました。やがて歯が痛くなりました。うっかりしてしゃべった私は口を修めていませんでした。

 三、不親切な考え

 神は人間の心をどこまでも見ていて、またこれから表現されるものも見ることができると、学法を通じて理解しています。なので、慎重に内面を見つめ、隠れた考えを手放さないようにすべきです。私は時々刻々心を修めるべきだと認識しました。以前は、日々の思考に目を向けることを怠り、葛藤が起きると、それを乗り越えられなかったのです。

 人の執着心は、葛藤が生じたときだけでなく、常にすべての思考に現れていると理解しました。多くの場合、念を動かすとそれは執着心の現れです。なので、常に内に向けて探し、見つけたらすぐ強い正念を発してそれを滅するべきです。

 かつての私は嫉妬心が強く、他人が得をするのを見ると自分が損をしたように感じ、他人が損をするのを見ると自分が得をしたように感じていました。人のことを嘲笑したり、人の災難を喜んでいました。また人助けをしても、表裏不一致で、偽善的でした。例えば、常人の親友の子供が困っていると、一生懸命に助けてあげますが、相手のために辛く思うのではなく、優越感を感じ、常人の子供の品行はこんなもんだと思います。

 病業の同修を助けるために、発正念をするにしても、相手に関心を持たず、さらに相手にいろいろ問題があるので、なかなか治らないだろうとさえ思ってしまいます。相手の病業が悪化したと聞いて、自分の考えの正しさが証明されたと思い、病業の同修の見舞いに行っても、心が整わず、時間の無駄と思い、同修が亡くなったと聞いた時は、手間が省けたと思いました。

 人助けをする出発点は自分のためであり、よいことをして、手柄を積むことが目的で、相手を思いやるという善意はなく、ただ手柄帳に一筆追記しようと思っていました。プロジェクトに参加して、手柄を多く得たいが、それ以上のことはしたくはなく、少しでも面倒なことがあると嫌がります。

 今、私は次の理を理解しました。自分が他人をどう思うかにより、神様も自分を同じように配置するのです。

 また、私は人心が重い同修に反感を覚えていましたが、実は相手は自分の鏡なのです。人心が重い同修に反感を覚えることこそ、自分の人心が重いことを現わしています。逆によく修めている同修は寛容です。実際、他人の身になって考えれば、人心が重い同修のことを私がさらによく理解できるはずで、自分もそのなかのひとりではありませんか。人心が重いことこそ常人のなかで形成された腹を探り合って互いに暗闘する観念がさらに重く、それを正すのはさらに難しいのではないでしょうか? これに対して、善意をもって理解すべきです。

 四、伝統文化からの啓発

 同修との交流を通じて、私の悩みの多くは「唯物論」や「無神論」に基づく誤った価値観によるものであることに気づかされました。

 孟子曰く「惻隠(そくいん)の心は仁の端なり、羞悪(しゅうお)の心は義の端なり、辞譲(じじょう)の心は礼の端、是非(ぜひ)の心を智の端」(※)。照らして見ると、自分の多くの振る舞いには仁・義・礼・智が欠けていました。

 修煉していない家族は、私の根本的な問題は利己的で不親切(おもいやり)なところだと指摘していました。だから、私は感謝や満足をしらず、求めるばかりで与えようとはしなかったのです。昔はよく喧嘩をしていて、非常に辛い時には離婚の話まで出ていました。自分が心を修めはじめてから、家庭が睦まじくなりました。また、家族に対する印象も変わり、今まで見えなかった相手が実はとても優しい人であることがわかりました。

 五、利己心を捨てないと、真の善は修められない

 かつての私は、利己主義は誰にでもある根本的な問題で、高いレベルに達してはじめて無私になれるのだと誤解していました。だから自分にはまだ早いと思っていました。しかし、私は、利己的か他人のためかが、旧宇宙と新宇宙の根本的な違いであるという理を忘れていました。以前利己的な部分を取り除かなかったのですが、実は回り道をしていました。

 以前は、早起きをして、たくさん法を学び、もっと煉功をし、価値の大きいことに携わり、それが精進していることであると思っていました。心を修めて善になることは計画内になく「比して学び、比して修す」 [2]の内かんも間違って理解していました。心性ではなく、むしろ形式と結果などを同修と比べ合っていました。例えば、他の人が自分よりもっと法を学び、煉功をしていると聞くと、プレッシャーを感じ、追いつきたいと思い、また三退をさせた人数が多いなど、ほかの同修の優れた話しを聞くと嫉妬し、同修とは競争関係のように、取り残されることを恐れていました。他の人がうまくいっていないと聞くと「それに比べたら自分は大したことはない」と安心してしまいました。

 これは、修煉を常人のなかの事として努力することであり、善の考えは生じませんでした。実は修煉というのは常人のなかのことではなく、放棄すること、手放すこと、退くこと、求めないこと、人のためにすること、人を成し遂げさせること、自分を向上させることなのです。

 多くの方面で精進している一部の同修が善を修める面で十分ではないことに気付いています。例えば、時折傲慢な態度を示す同修がいます。重要なことだけに価値を感じる同修がいます。他人に時間を取り上げられると焦って文句を言う同修がいます。他人の気持ちや困難を考えず、自分の利益だけを優先にする同修がいます。その利益とは、必ずしも金銭ではなく、時間やプロジェクトのリソースなど修煉者が最も大切にするものです。同修の中には、重要な利益を前にすると他人のことを全く考えないという極端な利己主義的な考え方をする人もいます。

 個人的には、同修が他のすべての面で精進されることは非常に立派なことだと思いますが、善の修めに注意を払わないのは非常に残念で危険ですらあり、この点については多くの教訓があります。そして、よく修めている同修は慈悲深く穏やかで、とても安定した歩みをすることが多いのです。

 六、善の本質と現れを理解する

 「己の欲せざる所は人に施すことなかれ」。相手の立場に立って考えるべきです。自分の弱さを人に刺されたくないなら、自分も他人の欠点を論じない。自分が間違いを犯したとき、大目に見てほしいなら、自分も他人を許す。以前私は人の間違いをつかむと手放さず、あまりにも不親切でした。自分にいいことがあったり、仕事が前へ進むととても喜びましたので、人のいいことも喜ぶべきで、不幸にあうと苦しいから、人の不幸も悲しむべきです。

 以前、私には気に入らない人がたくさんいて、誰一人として善い人はいないようでした。同修Dさんは善良で、正直で、常に「他人の身になって考え、良心的に」を口にしていました。私はとても理に適っていると思います。Dさんは誰もがよい人で、人の不足が見えても、相手は完璧ではないよい人と考えます。以前私はDさんの見方が正しくないと感じていましたが、後になって優しさの度合いの違いによる結果だとわかりました。

 今は、以前よりずっと人がよい人に見えるようになりました。気に入らない人が見えたら、その根本的な原因は自分の不親切さにあると分かります。善良で優しければあるほど、寛容になれます。実は、人を見て気に入る度合いが、善良さの度合いを反映しているのかもしれません。よく人が気に入らなければ、それは自分を向上させるべきことを物語っているのかもしれません。

 この辺りの問題が多すぎて、自分の根っこを掘り下げる必要があると実感しています。この文章を書きながら振り返ると、不親切というのは本当に生命の根本的な問題であり、それに気づくのに20年以上の修煉が必要だったのだと、ますます実感しています。実際、長年にわたり、家族から指摘されるだけでなく、同修や周りの常人が「善良さ」についてと言うのを何度も聞いてきました。これは、師父が常に他人の口を通して私に悟らせて下さっていたからであり、私はもっと前に気づくべきだったのです。

 私は法を得てから長い時間が経ちましたが、自分を修める方法がわからず、師父の慈悲深い苦度に応えられなかったのです。極めて利己的な生命から徐々に目覚め、少しずつ正すことができたのは、師父のおかげと感謝いたします。今後は、心を込めて学法し、法に同化し、善き思いと慈悲な心を修めるために努力いたします。

 以上は、最近の個人的な修煉体験であり、不適切な点があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し「比して学び比して修す」のためのものです】

(※)孟子の根本思想「性善説」にある「四端(したん)の説(とく)」の一つである。人は生まれながらにして、四つの心が備わっており、そこから 仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)が芽生(めばえ)るのだという。他人に対する親愛の情、優しき心。悪を恥じ憎む心。譲り合いの心、善悪を判断する心。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/2/2/456141.html)
 
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