【5.13応募原稿】日本の学習者:嫉妬心を取り除き、喜びに満ちあふれる
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文/日本の大法弟子 浄恩  

 【明慧日本2023年5月24日】私は一人っ子で、家の経済状況はそれほど裕福ではありませんが、幼い頃から衣食に困ったことはありません。

 両親は励ましと褒めることを主とする教育方針で、私に対して厳しい言葉を発したことはほとんどありませんでした。他人の前でも、恥ずかしげもなく褒めてくれるので、両親からはよく、あなたは「他の子の悩み」を知らないと言われました。

 このような環境で育つうちに、自分に対する要求も高くなりました。より多くの評価を得ようと、家でも外でも良い振る舞いをしていました。無意識のうちに、他人の話を聞かない性格になりました。また、他人が私より優れていると内心で不平を感じ、嫉妬心が芽生えてしまいました。法輪大法を修煉した後、真善忍の法理が分かり、嫉妬心の危害性を理解しました。日頃から、嫉妬心が出る場面に注意し、それを抑えるように努めていました。私は内向的で控えめな性格なので、周囲の人々との関係も非常に調和が取れています。

 修煉を始めた当初は、法輪大法に対する理解は表面的なものでした。常人の我慢する方法で問題を解決していましたが、そうすることで内心のバランスを保っていました。しかしこのバランス感覚は、結婚後に徐々に崩れていきました。

 主人はとてもまじめで几帳面な人で、また頑固で完璧主義者でもあります。心を通わせる新婚生活から、暮らしの必要品を考える平凡な生活の日々へと変わり、そして夫婦で事業を始めるようになると、私の心性は試され常に挑戦が必要でした。

 大法に対する表面的な理解だけでは、トラブルの中にいると、私は冷静さを保つことができなくなりました。以前は強く我慢する方法で問題を解決していたのですが、それはもはや崩れ落ちてしまいました(効かなくなりました)。「私にそんなことを言う権利がありますか?」と、内心不平に思い、極端な精神状態に陥り「あなたは私より少し年上なだけで、それで偉いのですか?」 「なぜあなたの言うことを聞くのですか。あなたが言っていることが正しいって、本当ですか?」といった質問が頭の中でぐるぐる繰り返され、私は修煉者の最低基準をなんとか維持することしかできませんでした。

 そのため、私の家庭ではよくこのような場面がありました。一方(夫)が立って大声で叫び、もう一方(私)は椅子に座って黙ります。一方(夫)が他の方法を提案しますが、もう一方(私)は静かに抵抗して「やりません!」と言います。30代の人が「やりません!」と言うのはとても子供っぽいですが、それが当時の最も真実の私の心情を反映したものでした。

 その結果、「やりません!」が私のあだ名になり、彼は、何かにつけて私をからかいました。当時、私は自分の内心の不平が嫉妬心から来ていることに気付いていませんでした。そのため、「私は修煉者であり、常人と張り合ったりしない」という自覚から再び心理的なバランスを見つけていました。

 あっという間に2020年になり、世界を席巻した新型コロナウイルスパンデミックが人々の生活を変えました。師父の慈悲の見守りの下、私の夫もついに法輪大法の修煉に入ることができました。家族がやっと法を得たという喜びの時期を過ぎると、私はまた、新たな挑戦に直面することになりました。

 法を得た主人は、大法の法理が分かり、法に従って自分を正すだけでなく、彼自身が理解した法の基準と同じように私に要求してきました。私の身に何かが起きると「なぜ内に向かって探さないのですか」と再三にわたって言います。もちろん、内に向かって探さなければならないことは分かっていましたが、新しい学習者に内に向かって探せと要求されるのは、いつも不快に感じました。また、主人の根基が良いのに加えて、師父がよく法理を見せてくださったので、彼の心性は日々、飛躍的に昇っていました。 彼と交流する中で、彼の修煉の体感や法理に対する理解は、私が初めて法を得た時とは大きく違っていると感じます。彼の言うような状態を私は経験したことがなかったのです。それで、彼のことを喜びながらも、心のアンバランスを少し感じてきました。

 トラブルが生じるとき、以前の我慢や軽視する心から、「あなたも修煉したのだから、コミュニケーション方法を変えるべきだし、あなたも内面に目を向けるべき......」と、ひどく腹が立って仕方がない態度に変わりました。二人とも相手に変わることを求め、しばしば意見が対立しました。その後、また一緒に誤りを反省し、次回は必ずクリアしましょうと言います。しばらく、こうしたサイクルを繰り返し、調和を図ります。同修の母親に相談したところ、「自分に厳しく要求しなさい」と言われました。以前にどれだけ修煉していたかに関係なく、新しい弟子の手本になるのは先輩弟子の務めです。そのためには、常に内に向かって修め、自分を高めていくしかありません。

 私は法を学び続ける中で、以前の自分は修煉者として誇っているにもかかわらず、まだ関門を乗り越えることを生活の苦難として扱い、その内心の不平の根源が嫉妬であることに気づきませんでした。

 師父は、「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」[1] また、師父が『忍とは何か』の中で述べている「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[2]という内包を理解することもできなかったのです。

 真の忍とは、トラブルを解決することが目的ではなく、それは有為であることに気づきました。 心に波紋がなく、如何なる外的条件にも動じないことこそ、修煉者の忍の状態にあるべきです。 悟りには試練がつきものです。 その後、主人が再び大声で私を非難し、私も負けずに言い返そうとしたとき、ふと、「自分が不公平だと言います」[1]が悪であり、私は修煉者であり、内心不平となっているのは私ではない、それは要らない、動じない修煉者の忍が欲しいと気付きました。私の心はこの念を保ち続けていました。やはり「アンバランス」はまだ残っていましたが、この念が固定されて、私に何も影響できません。私はスムーズに今回の関門を通過することができました。

 師父は、私が嫉妬心を取り除く正しい念を持っていることを見抜き、慈悲深く私にさらなる法を示してくれました。トラブルが起きた翌朝、朝の静功の時、普段両足を組める夫ができなくなりました。突然組めなくなったのです。代わりに、片足を組んだだけで、足の膝がすごく高く上がっていました。彼の顔をしかめた苦しそうな表情を見て、不思議に思いました。 その時、突然、頭の中に 「これはあなたのためだ!」という声が聞こえました。 私はショックでした!

 師父はこのように説かれています。「実は、本人自身はそうとは知りませんが、あなたの業の消去に手を貸してくれたのです。相手は表向きあなたと喧嘩しているような振りをして、内心ではあなたを思いやっているというわけではありません。本当に心から腹が立っていたのです。なぜなら業力が誰かのところに落ちていれば、その人は必ず辛い思いをするからです。これは間違いないところです」[3]

 そうですね、トラブルの中で主人が私に関門を乗り越えるのに手を貸してくれました。その業力は彼が受け持たなければならないのです! それを思い出した瞬間、私は初めて本当に、修煉の道で自分に難関の機会を作り出す同修たちや常人たちが背負っているのは何なのかということが分かりました。師父は私たち弟子一人ひとりに天に登るための階段を用意してくれています。その階段の一段一段は、私たちが関門の通過に手を貸してくれる人たちなのです。私の向上の一歩一歩は、師父の加持のもとで、他人の肩に乗って登ってきたのです。その瞬間、私は深い感謝の気持ちに包まれ、修煉者は問題を逆に見るべきだという法理を深く理解しました。私の心のアンバランスは溶けてしまいました!

 これらの体得があった以降の修煉では、誰と一緒であろうと、どんな問題にあったとしても、自分を抑制し、できるだけ心を動かさず、念を起こさず、内面を見つめるようにします。常に完璧にできているわけではないですが、正念を持って向き合うことができるようになってきました。

 ある時、私たちは早期に法を得て、非常に精進している同修と交流をしました。主人は喜んで最近悟った法理について話し始め、私は黙って彼の話を聞いていました。しばらく話した後、この同修が急に私の方を向いて、「なんだかご主人は遅咲きで、あなたを追い越したみたい」と言いました。私は心を揺さぶられ、本能的に反論しようと思いましたが、何か違う気がして最後には笑って黙っていました。

 その同修が去った後、自分は内に向かって探しました。どんな心にぶつかりましたか? 他人より自分が劣っていると言われると嫌な気持ちになるのは、嫉妬心です。主人が修煉してから現した多くの状態は私にはないので、少し挫折感を覚え、それが他人に見抜かれ言われたことによって名誉心にぶつかりました。人に言われたときに即座に反論したいと思うのは争う心です…色々考えた結果、私は突然気づきました。実際に主人は、私が持っていない多くの優れた点(長所)を持っています。ならば、どうして私は素直に認めたり受け入れたりできないのでしょうか? 「謙虚」という言葉が浮かび上がりました。私は自分を高く評価しすぎており、謙虚ではないため、他人の優れた点を心から受け入れられなかったのです。

 師父はこのようにおっしゃいました。「あなたは私を救うべきだ、皆があなたは私を救うべき、救うべきだと言っていますが、その表現形式は世間の論理や認識のようなものではなく、人に何かを頼むとき礼儀正しく、慎み深くなければならず、私を救ってくれるから、まず感謝して、便宜を図ってあげるという認識ではありません。それらから見れば、私を救ってくれるなら、まず私の次元に達し、この威徳を持ってはじめて、私を救うことができます」[4]

 上から目線で、自分よりも優れた人を見下す態度で接することは、旧勢力と同じではありませんか? それらの人心の奥に潜んでいる「大魔王」を見つけ、正念を発し、旧勢力のすべての安排を否定します。同時に、日常生活では他人の輝く点を多く見つけるようにします。自分自身の不足もできるだけ隠さず、静かに同修の意見を聞き入れます。時には恥ずかしいと感じることもありますが、心の状態は以前とは大きく変わりました。

 先日、主人が親戚に師父の新しい経文「なぜ人類が存在するのか」を読んでいたところ、親戚たちから大きな騒ぎが起こりました。私はこれが試練であることを理解していましたが、一時的に心性を守ることができず、私は「彼らはどうしてそんなことをするのだろうか?」と主人に大声で言いました。主人は「あなたの心は動かされています。今は黙っていてください」と答えました。私は動かされていない、ただ焦っているだけだと弁解しました。主人は厳しくこう言いました。「あなたは常人に連れて行かれて、常人と同じレベルになりましたが、自覚していないだけです。私たちが経文を彼らに読み聞かせる目的は何ですか? 私たちは師父が救済しようとしている人々を助けているのではないでしょうか? あなたは師父と法を100%信じていますか? 私も心が動じましたが、すぐに試練であることに気づきました!」

 その時、私はようやく冷静になりました。反論したいという感情や「新しい学習者が私に何を言うんだ!」という気持ちが再び湧いてはきましたが、主人の今回の言葉を冷静に受け止め、すべての邪魔を排除しました。「あなたの言うことは正しいです!」と直接言いました。今までのようにただ心の中で思うだけではなく、直接言葉で伝えました。その時、嫉妬の気持ちは感じず、そこにあるのはただ心からの感嘆でした。「あなたの悟りは素晴らしいです、よくやりましたね! 本当にあなたのことを喜んでいます!」

 この念を発した時、私は自分の物質的な身体の心の中で、大きな花がゆっくりと咲くのがはっきりと感じられました。笑顔が段々広がり、真剣な表情が心からの笑顔に変わり、まさに「心に花が咲く」という言葉がぴったりでした。

 なるほど、古代からの人の言葉には由来があるのですね。しかし、この「心の花」は、自分がどれほど喜んでいるかではなく、他人のことを心から喜んでいる時にこそ咲くものなのです! 師父、嫉妬から解放されることの心地よさを教えてくださりありがとうございます。

 最近、主人が「やりません」というあだ名で私をからかうのをやめました。主人から何か頼まれるとき、彼の態度が良くても悪くても、笑顔で元気いっぱい応えています。あるとき、彼は不機嫌な言葉を二言三言ったあと急に笑いだし、「そういえば、あなたは最近よく修めていますね」と言いました。

 師父が弟子を見守り、諭し悟らせてくださることで、私はようやく嫉妬心から抜け出すことができ、少しずつ心性が高まりました。師父に感謝します。 修煉の過程では浮き沈みが繰り返されますが、修煉方法を得たので、弟子は必ず精進して、師父にご恩返しができるよう頑張ります。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「境界」
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』 「忍とは何か」
 [3] 李洪志師父の著作『転法輪
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』 「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/5/20/460955.html)
 
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