文/中国大法弟子
【明慧日本2023年5月31日】夏休みの間、娘の子供2人が私のところに1週間滞在しました。女の子の名前はヨヨ、男の子の名前はジジです。ある日の昼ご飯のとき、ジジはソファに座ってテーブルで食べたいと言い出したのですが、ソファや床に食べ物がつくのが心配で、椅子に座って食べるようにと言いました。しかし、泣きながらソファで食べると言い張りました。私にはジジを変えることはできず、他に選択の余地がなかったので、一旦寝室に戻って内に向け非を探し、自分の何が大法に合わないのかを自問しました。しばらくの間、あたまに「自己堅持」の4文字が浮かびました。私はすぐに、自分の堅持する心を取り除くと言いました。言い終えると同時に、ヨヨが「おばあちゃん、ジジが椅子に座ってご飯を待っているよ」と声を掛けてくれました。テーブルに行くと、先ほどまでソファで頭を抱え、口を尖らせて手を煩わせていたジジが、すでに椅子に腰掛けて食事を待っていました。内側に目を向け探すと不思議なもので、ひねくれた子はみるみる素直になっていきました。
また、ある日の昼ご飯のとき、私は2人の子供に手を洗うように言いましたが、何度か言った後、ヨヨはようやく手を洗い座っていました。ジジは地面に座ってゆっくりと靴を履いたので、私は「どうして手を洗わないの」と聞きました。ジジは憤慨し、寝室に走って行き、ベッドに横になり、私に「謝って、ごめんなさいって言って」と2回も言いました。私はジジに何をしたのかわからなくて、この時、師父の言葉「一歩引き下がれば世界が広々と開けると言っています。間違いなく違った世界が現われるのです」[1]を思い出したのです。そこでジジに「ごめんね」と謝ったら、その言葉を待っていたかのようにすぐに食べに行きました。しかし、その「ごめんなさい」がとても弱く、適当で不本意であることがわかりました。後でジジに「おばあちゃんに謝ってもらいたいのは、おばあちゃんが何か悪いことをしたからなの?」と聞くと、「誤解だよ。手を洗おうと靴を履いていたら、洗わないのって言ったじゃないか?」
なぜ、子供たちを誤解するのかと私は自問しました。ジジは普段とてもやんちゃで、予想外の行動をとることが多いのです。たとえば、約400円で買ったばかりの鉛筆を折ったり、引き戸に小さな真珠を入れ、ドアが押せなくなったり、引き戸の真ん中に大事なものを詰め込んだこともありました。そんなこともあり、ジジは世話を焼かせ、言うことを聞かず、いつも私を不安にさせるため、良い印象はあまり持っていないのです。私はジジに食べ物を与えるとき、小さい方を、美味しい物をあげるときも量を減らし、電話で連絡を取る際もヨヨの様子しか聞かず、これはジジに対して不公平であり、よく考えてみればただの報復心です。私はとても後悔し、気が咎めました。どうしてまだ6歳の子供に損得して計算するのか、これで良い人と言えるのでしょうか。ここまで修煉しているのに、良くない考えが出てきて、ジジには本当に申し訳ないと思いました。
この時、私はジジの色々な良いところを思い出しました。ある時、ジジとビラ配りに出かけたのですが、時計を見ると午後3時、まさに暑い時間帯で、私は暑いからちょっと遠慮したのですが、ジジがどうしても行きたいというので、一緒に行きました。すると、ジジはほとんど走って配り終えました。別な時も1階から8階まで、ジジは駆け上がってきて配り終えました。
ネガティブな思考で他人を判断することは、本当に他人や自分に害を及ぼします。毎回、2人の子供に食事前の手洗いをするように、何度お願いしてもしてくれないので、いつも我慢しています。今になって初めて、自分が以前から悪い考えを抱いていたことに気づき、それを子供のせいだと思って、どうすることもできずに同じことを繰り返しました。その結果、子供達がますます酷くなり、私の言うことを全く無視したりしたのは、自分が子供達に対する不親切な考えが原因であると考えられます。これを理解したとき、実験をしてみました。子供たちに手洗いをさせる前に「子供は利口で、真善忍に同化させたい存在です」と思うようにしました。もう一度親切に声をかけたところ、たった1回の呼びかけで、子どもたちは素直に手を洗い、またはハンドソープで手を洗ったりして、今までにはなかった言葉、「きれいになったよ」と言ってくれました。
人生である程度の嫌なことは、自分自身の不正な考えが原因であるとわかりました。2人の子供がうちに来て、初日の昼ご飯のとき、ヨヨがアイスクリームを食べたいと言いだし、私はすぐに「食事の前に冷たいものを食べてはいけないよ。冷たいものと熱いものを一緒に食べると、体調を崩すよ」と言ったことを思い出しました。しかし、ヨヨはどうしても食べたいと言うので、一歩引いて「食事の後、少し待ってから食べよう」と言ったが、それでも彼女は泣き止まないのです。仕方なく寝室に戻り、心を落ち着かせようと明慧ラジオをつけると、最初に 「自分を堅持」という言葉が聞こえてきました。これは、私に対する掲示なのでしょうか。よく考えてみると、師父は「子供を躾けることは問題がないので」[2]と説いています。私は子供を躾けることは間違っていません。子どもの食事や日常生活の責任は私にあります。ここに数日滞在して、体調が悪くなったらどうするのか、子供が元気なままで母親のところに帰すのは、当然のことだと思います。色々と考えてみましたが、やはり正しいことです。自分のどの部分が大法に符合しないのかを、修煉者は修煉の基点で問題を考えるべきです。
内に向け探してみると、私が主張したのは大法の基準ではなく、人間の中で形成された概念であることがわかりました。例えば、「食前に冷たいものを食べると、体調が悪くなる」ということ、実際、人間が病気になるか否かは、業が原因であり、業がなければ冷たい物や熱い物を食べでも問題は発生しません。ゴミ拾いをしている人は1日中手を洗わない、汚れている、なぜ彼は病気にならないのか。彼にはその業がないからです。どれだけ衛生的で、食事や栄養にどれだけ注意を払っていても、3日ごとに深刻な病気にかかる人もいますが、これは業によって引き起こされるのです。
それを理解した上で、食前にアイスクリームを食べてはいけないという概念を捨て、その日は食前にアイスクリームを食べさせても、食後は平気で、すぐに部屋の中を走り回りました。「食後に走り回ったり、激しい運動をしたりしてはいけないよ」と私が怒鳴ったのですが、子どもたちは聞こえなかったようで、追いかけっこをしたり、遊んだりし続けました。これらの概念はまったくありません。
さらに、子どもが病気になるのが怖い、娘が文句を言うのが怖い、娘に言い訳が出来ないのが怖い、これらはすべて恐怖心であることがわかりました。人が辛く疲れる人生を送るのは、この人心を手放せないからです。自分のこと、家族のこと、あれこれ心配する時、心の重みが大きすぎるとき、あなたはすでに常人の中に迷い込んでいます。
大法弟子は大法を実証し、衆生を救う者であり、人間の認識や悪い思想に支配されてはならないです。
師父、ありがとうございます。
合掌。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪法解』「鄭州での説法 質疑応答」
(責任編集:文谦)