文/米国の大法弟子
【明慧日本2021年6月17日】以前から喉に違和感があり、話していない時は問題ないのですが、 話すと違和感を感じ、法の勉強にも影響があります。法を唱えるときに声を出すことができず、本当に嫌です。最初は数日で業を滅することができると思っていたのですが、今回は少し長引いているので、何か問題があるのではないかと感じています。
私の仕事はしゃべることですが、しゃべってはいけないということで、自分でも反省して、最近何をしゃべっていたのか? 私は師父の写真を見ながら、啓発を与えてくださるよう師父にお願いしました。
師父は、私が純粋に自分の問題点を見つけようとしているのに見つけられないことを見抜かれたのでしょう。そこで、ある日、自分を浄化するために正念を発したところ、師父はその啓発を教えてくださり、自分が真実のことを話していると思っていることが、実は言ってはいけないことだったりして、それが悪い影響を与えたり、自分に業を加えてしまうことがあるということに、突然気づかせてくださいました。何が問題なのかを理解したとき、私の喉は軽くなり、違和感がなくなりました。
以前、仕事上で知り得るデリケートな内容を、家族はもちろん誰にもほとんど話さなかったし、それを普通の人の間で話すことは職業倫理と言われます。大法プロジェクトでは、他の人が知らないことを知っていても、それを口にすることはほとんどなく、自分では良い仕事をしていると思っていました。しかし、時々、信頼できると思う人と話すときは、自分が遭遇した問題を伝えるかのように、知っている人の話をします。特に、ある人のやり方に同意できないとき、特定の人や出来事について話すときは、他の人と話をして「あの人はどうしているのか」などと非常に盛り上がります。自分が話していることは噂ではなく、自分が見たこと、経験したことが真実であると感じます。他の人に言われたことも大半は耳に入ってきます。私はまだ自分が真実を語っていると思っていますが、実は善悪を論じることは、大法修煉者としての要求に沿っていないのです。
師父の法の教えとは対照的に、今まで自分では真剣に考えたことはなかったのですが、実はいわゆる真実を語るとき、誰が良くて誰が悪いかを言っていることになり、それが業を作ることにもなるのです。その上、ある人が悪いことをしていて、それが真実のように思えて他の人に何気なく話すと、その人やもしかしたらプロジェクトの運営にも悪影響を及ぼすかもしれません。自分が見ているものが一方的で、もしかしたら他の人がやっていることを誤解しているかもしれない場合、なおさら悪いことです。 また、自分の意見が必ずしも正しいとは限りませんし、言ってはいけないことを言ってしまうと業が生じる可能性もあります。
師父は「人間の考えに一つの弱点があります。皆さんは長い間真相を伝えるとき、このことに気づいたのです。つまり、先入観のことです。(笑)何かの認識を受け入れてしまえば、この認識をもって後のことを量るのです」[2]と説かれました。もしある人が私に、誰かのことを言われたり、何か悪いことをされたりすると、後でその人に会ったときに「この人はこういう人なんだ」と感じることがあります。
完璧な人はいないし、修煉している人もよく修めていないところがあります。すでに人に対する観念があるから、他人の欠点ばかりを見て、良いところは無視して、本当は誰もが持っている良い面をもっと見るべきなのです。
自分自身を深く掘り下げてみると、人に話す内容は、自分が見下していること、嫌いな人、納得できないことが多く、自分が正しいということを他人に認めてもらいたいと思っているのがわかります。特にそのような人が悪いこと、理解できないと思うことをすると、あちこちに伝えたいという気持ちがありますが、実はここには他人を見下す心、嫉妬心が隠れていて、時には自分はもっと知っているとアピールしたいときもあり、これは顕示心の現れです。
今までは自分が持っている執着心を認めたくなくて、心の奥底に触れたくない執着心を無意識に隠していた自分の執着心を見せてくださった師に感謝しています。このように、常に内に向かって探すことで、最終的にこれらの執着を取り除き、自分自身を浄化することができるのです。
次元が限られていますので、適当でない所があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「新唐人テレビ討論会での説法」