【513】純粋な心で物事に対処する(二)
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 【明慧日本2023年9月1日】私は、2018年の春に法輪大法を学び始めたアメリカ人です。この千載一遇の貴重な機会にとても感謝しています。

  世の中の状況は急速に変化しており、ますます多くの人々が法輪大法について知りたがっています。1992年5月13日、李洪志師父が法輪大法を世に公開されてから30周年記念に際し、私の修煉体験談を紹介し、法輪大法を理解するための一助になれば幸いです。

 (前文から続き)

 難儀を乗り越える

 難儀にはさまざまな形や大きさがありますが、その大小にかかわらず、私たちの修煉の過程の一部です。 私が最初に心性を向上させる難儀は、忘れがたい永続的な印象を残しました。

 ある老夫婦の訪問診療をした際、そのご主人は私の声が聞こえないと言いました。私は声を上げようとしましたが、彼は非常にいらいらし、プロなのだからプロらしく振る舞わなければならないと怒鳴られました。私の声はどんどん擦れて、彼は私の声が聞こえないためにますます激昂しました。ついに私もカッとなり「これ以上大きな声が出せないので、今回の診療は他の人に任せるべきかもしれない」と言いました。彼は怒りながら「それはいけない、今すぐ診療してもらうんだ」と言いました。 私は深呼吸をしながら、大法の教えを思い出すよう自分に言い聞かせました。

 「一人の煉功者としては、まず殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、ひたすら耐えられるようでなければなりません。でなければどうして煉功者と言えましょうか? 『そんな忍は実行するのが難しい。わたしはかんしゃく持ちだから』と言う人がいます。自分でかんしゃく持ちだと分かれば、改めればいいではありませんか。煉功者は絶対に耐えられなければなりません」 [1]と師父は説かれました。

 そのご主人は、私にはプロ意識がなく、本当は何も知らないのに何でも知っていると思い込んでいるとか、私は悪い母親で息子の悪い見本だと、私を責め続けましたが、私は心が動じませんでした。 「たとえ一日中怒鳴られていたとしても、私は煩わしく思わないだろう」と思いました。彼は5分近く話し続け、私はただ微笑みながら耳を傾けていました。彼の話が終わると、私はただ「はい」と言っただけです。

 すると、不思議なことが起きました。私が動じることなく、名利心、誉めの言葉を聞ききたい心、尊敬されたい心、論争したい心、メンツと自我への執着を手放したおかげで、私の周りの状況はほぼ瞬時に変化し、そのご主人は突然私の声が聞こえるようになりました。私はもう声を張り上げなくても済むのです。

 彼は私に対する態度を完全に変え、とても親切に話し始めました。診察が終わった後も、私を引き留めて家族の話や写真を見せてくれました。私は大法の奇跡的な力を身をもって体験し、自分を変えるのと同時に、自分の周りをも変えました。

 もう一つの試練は、私が突然、職を失ったことです。私の収入が家計を支える主な財源でしたので、この状況が数カ月も続くと、経済的なストレスが大きくなり、夫にも精神的なプレッシャーがかかるようになりました。普段は仲の良い夫も、私に対して次第に不機嫌になり、仕事を探すようにと大きなプレッシャーをかけてきました。最終的には、住んでいる家を失い、別居して親戚の家に身を寄せるかもしれないというところまで事態が悪化しました。

 同じ時期に、私の車は車検の必要があったのですが、ヘッドライトにちょっとした問題があったため、車検は不合格となり、車の運転ができない上に修理代がとても高くつきました。そこで、知り合いがこの問題を解決することができる、そうすれば、お金の節約とストレスがだいぶ和らぐよと言ってくれました。しかし、私はこの問題に誠実に対処しなければならないと考えていたので、丁寧に断りました。

 当時、これは非常に大変な試練でした。車の修理代をどこから調達すればいいのかわからなかったのです。最終的にカーディーラーの見積もりよりもはるかに安く車を修理してくれる人を見つけ、車検にも合格しました。私が正しい選択をしたおかげで、最終的に問題を解決することができました。

 ほかにもいくつかの試練に遭いました。例えば、父が数百万米ドルの遺産をいとこに残して、私には何も残さなかったことです。周りの誰もがそれは私が得るべきものだ、弁護士を雇って奪い返すべきだと言いましたが、これは試練だと認識しました。

 私は師父の法を思い出しました。「ですからわれわれは自然に任せるように言っているのです。時に、それが自分のものだと思い、他の人もあなたのものだと言ってくれても、実際はあなたのものではない場合があります。あなたは自分のものだと思い込むかも知れませんが、最後になるとあなたのものでなくなります。その点から、そのことに対してあなたが無頓着でいられるかどうかを見ますが、無頓着でいられなければそれは執着心なので、この方法を用いて利益にこだわる心を取り除かなければならないのです」 [1]

 奮って精進する

 修煉は簡単なことではありませんが、執着を手放したくないからこそ、私たちは難しいと感じています。

 師父は「本当に修煉を決意した人にとっては、もし耐えることができ、さまざまな利益を前にして執着心を捨て去ることができ、そういうものに淡泊になれたら、こういうことを真に実行できれば、難しいことは何もありません。難しいと言う人は、こういうものを捨てられないからにほかなりません。功法を修煉すること自体はそれほど難しくなく、次元を向上させること自体には、それほど難しいところはありません。人間の心を捨てられないから、難しいと言うのです。難しいと言う人は、こういうものを捨てられないからにほかなりません。功法を修煉すること自体はそれほど難しくなく、次元を向上させること自体には、それほど難しいところはありません。人間の心を捨てられないから、難しいと言うのです。なぜなら現実の利益の真っただ中で、心を捨てることは至難だからです。利益がすぐここにある時、心をどうして捨てられるでしょうか?」 [1]

 心を揺さぶられるもの、手放せないと感じるものに出会ったとき、私は一歩引いて師父の法を思い出すようにしています。また「私の動機は何か」と自問してみます。一つの執着を別の執着で修正するのではなく、純粋な心で物事に取り組むことが大切です。うまくいくときもあれば、うまくいかないときもあります。それが修煉というものです。

 より多くの人々が法輪大法を学ぶようになれば、彼らも大法の偉大さを体験するようになるでしょう。法輪大法を修煉することは、返本帰真し、私たちの本当の家に帰る道をたどることです。私たちは幸運な生命です。

 慈悲なる師父が、宇宙のすべての衆生にこの未曾有の機会を与えて下さったことに感謝いたします。必ずこの機縁を失わないようにしましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/5/19/442283.html)
 
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