歴史的な4.25を体験してきた
■ 印刷版
 

文/北京の大法弟子

 【明慧日本2023年10月31日】1999年4月25日の日曜日、私はいつものように北京の海洋局近くにある法輪大法煉功に行きました。驚いたことに、いつもは学習者で溢れているのですが、その日はとても静かでした。私は、そこにいた数人の学習者に尋ねたところ、煉功グループのほとんどの学習者が、天津で不法に拘束されている学習者の釈放を平和的に訴えるために、中央政府の敷地である中南海に行ったと言いました。

 当時、私は法輪大法を修煉してまだ数カ月しか経ってなかったため、訴える趣旨がよくわからず、行くことはしませんでした。しかし、家に帰ってから、中南海に行った同修たちと、連絡が取れなかったので心配になり、自分で中南海まで行って確かめることにしました。

 私が自転車で中南海周辺を走っていると、そこで多くの学習者を見かけました。彼らのほとんどは、文津街の北側と府右街の西側に立っていました。彼らは秩序を保ち、地元の交通を妨げたりしていませんでした。事態が平和的であり、政府が暴力的な対応をとらなかったことを知り、安心しました。しかし、知り合いも見つからなかったので、家に帰りました。

 午後遅く、ある同修が「中南海に行った学習者たちは無事です。心配しないでください。同修たちが一日中コンクリートの地面に座っていたので、マットを持ってきてもらえないですか?」と言いました。 私はいつも使っている座禅マットを数枚見つけて縛り、中南海へ戻りました。

 その時私は、府右街で煉功グループの同修を見つけました。彼らのほとんどは新聞紙やビニールシートの上に座っていました。自分の修煉体験を共有する人もいれば、静かに法輪大法の本を読んでいる人もいました。私は彼らにマットを手渡しました。若い学習者はそれを年上の学習者に渡しましたが、年配の学習者は、遼寧省や河北省など近隣の省からきた人々にそれらを使ってもらいたいと考えていました。そこではお互いのことを知りませんでしたが、まるで大家族の一員のように感じました。その雰囲気に感動した私は、訴える最終結果をここで待つことに決めました。

 徐々に暗くなってきたので、私は家族に電話するために近くの電話ボックスに行きました(当時はほとんどの人が携帯電話を持っていませんでした)。10人以上の人が並んで待っているのを見て、思わず「結構並んでいる!」と口走ってしまいました。

 私の前にいた人は振り返って、「あなたも学習者ですか? 急ぎの用事があるなら、先にどうぞ」と言いました。前の人も、先に電話をかけさせてくれると言ってくれました。 誰もが同じ目的で家に電話をしていることは分かっていました。私たちを結び付け、神聖で緊密な絆を築いたのは大法です。私は彼らの無私無欲さに感動しました。私は彼らに感謝して列の最後尾に並びました。

 その後、さらに多くの同修がやって来ました。私と同じように、彼らのほとんどは「わぁ、こんなにたくさんの人がいる!」と口走っていました。私は、また彼らに私の前に電話を掛けてもよいことを申し出たのですが、誰ひとりそのようにはしませんでした。全員が会話を非常に短くしており、電話を次の人に渡していたのでした。

 この小さなことを通して、私は自分が浄化され、昇華したように感じました。

 李洪志師父はこう説かれました。

 「法輪大法のところだけは絶対きれいな浄土なのです」[1]

 私は、家族に電話して元の場所に戻りました。しばらくして、学習者の代表たちが中に入り、当時の首相朱鎔基が出迎えたとの連絡が入りました。また、朱首相は私たちに平和的に法輪大法を修煉させると約束し、前日に天津で連行された学習者を釈放するよう警察に指示したとも伝えられました。

 請願は無事に終わったと思い、私たちは現場を離れ始めました。ボランティアでゴミ拾いをする同修もいました。そこで私も、地面に落ちていた新聞紙やビニールシート、ペットボトルなどを拾い、近くのゴミ箱に捨てました。誰も命令したわけではなく、みんなが自らやっていました。

 みんなと一緒に立ち去った後、私はまた、それがどれほど静かで整然としていたかにも感動しました。誰も大声を出したり、混み合ったりすることはなかったのです。後に残されたのは、静かできれいな通りでした。

 その瞬間の私の気持ちを説明できる言葉はありません。そのようなグループの一員であることをただ誇りに思いました。そしてその時、私は将来何が起こっても、どんなに困難な道であっても、「法輪大法の修煉を誰も止められない!」と強く思いました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『カナダ法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/4/24/459140.html)
 
関連文章