文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年11月3日】今日、再び色魔の試練に遭遇したとき、私は突然ある疑問に気づきました。「他の執着の試練には厳粛に対応することができるのに、なぜ色心については十分重視できないのでしょうか?」そこで私は、他の試練についていくつか思い起こしてみました。
利益の問題に直面したときに、私が厳粛に対応できた理由は、師父が見てくださるため、個人の利益が損なわれることを心配する必要はないと思っているからです。大法を実証するプロジェクトに取り組んでいるときに、インスピレーションがなくなり、頭を抱えるほどの問題に遭遇したとき、厳粛に対応できたのは、高級生命からインスピレーションの助けを得られるという希望があるからです。怒りが生じたとき、すぐに我慢できたのは、修煉者の心構えを維持することで人間関係の苦痛を回避できると思っていたからです。
私が上記の面で比較的に精進できたのは、これらの面での正念が強いからではなく、まさに修煉を始めたときの根本的な執着が放下できていなかったからです。大法の修煉を始めた当初、私はすでに対人関係や怒りのコントロールが崩壊寸前でした。しかし、大法に触れたことで、数日のうちにこれらの表面的な執着をすぐに取り除くことができ、私の精神状態と対人関係が全体的に改善されました。このようなことにより、「大法は内心の幸福と安らぎを与えてくれる一種の優れた心理学である」という根本的な執着が、潜在意識の中で深まりました。
この根本的な執着があるために、私は長い間、色心や安逸心といった問題に真剣に向き合うことができませんでした。こういった執着を手放しても根本的な執着である「内心の幸福と安らぎ」は満たされないので、私にとっては「損得がつり合わない」、「犠牲を払う」ことでしかありませんでした。
根本的な執着を避けてきたからこそ、「修煉の初心」の状態を維持できなくなっているのだと認識しました。
修煉の初期の頃、大法が修煉者にもたらした大きな変化は、私の根本的な執着を満たし、同時に強い喜びを感じました。その歓喜心は、根本の執着を抑制し、表面的なよい精進状態をもたらしてくれました。そして、新しい試練が次々と現れる中で、根本的執着を抑制していた表面的な変化が優勢ではなくなりました。時間の経過とともに喜びも薄れ、根本的執着が徐々に優勢になり、以前のような修煉初期の初心の状態を維持することができなくなっていったのです。
さらに、「修煉の初心」とは、単純な静的な状態ではなく、常に執着をさらけ出し、たえず取り除いていくプロセスであることを発見しました。執着は次元ごとにあり、修煉の真の目的を絶えず浄化することによってのみ、各次元に対応するその次元に必要な、より本質的な佛性を維持することができます。佛性と根本的執着はあらゆる面で正反対です。前者は返本帰真を望んでいますが、後者は自分が最も大切にしている人心を残したいと考えています。
自分の修煉の道から見ると、修煉の初期段階では、どんなに悲しいことが起こっても、喜んで向き合って自分を向上させることができました。そして時が経つにつれて、今では執着が消えないのはなぜなのかと思い悩むことが多くなったのですが、実際に私が悩んでいたのは、なぜ執着を手放すのがこんなにも辛いのかということでした。自分は修煉していると思っていましたが、実際には一つの次元にとどまっており、上に向かって修煉しようとしていなかったのです。学法する際も、ただ自動的に執着を取り除きたいと思っていました。
明慧ネットの同修の交流文章からも同様の問題を発見しました。 一部の同修は、身体の病業や邪悪な迫害に直面したときだけ、正念を発することを考えます。しかし、普段、常人の嬉しいことに出会ったときや、昨日よりも今日の進歩がないと感じたときなどは、正念を発することなく、苦しい時と同じように真剣な姿勢で、内に向けて非を探すことはしなかったのです。
『精進要旨』での、師父と神様との会話は次のとおりです。
「神: 彼らの中には、彼ら自身が良いと思う法の一面を求めに来た人がいますが、かえって彼ら自身は、法のすべてを認識できなくしている他の一面を放下できずにいます。」
「師: そうした人は古くからの弟子の中にもいます。しかも、最もよく見られることは、彼らはいつも人間と比べ、彼ら自身の過去と比べていますが、各次元での法の要求に基づいて自らを量ることができていないのです。」(『精進要旨』「時間との対話」)
この一節の法は私への警鐘であると理解しました。「修煉の初心」とは精進することを意味し、精進するということは次元の突破を意味します。根本的な執着を抱えていると、法の要求を各次元で完全に体現することができなくなり、当然、各次元の状態を実現することもできません。したがって、同修と共に励むためにこの文章を書きました。
自身の次元には限界があり、不足があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
(責任編集、于悦)