文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年11月8日】修煉者のAさんは私の同僚でした。私たちは修煉を始める前からすでに良い関係でした。修煉をしてから、特に1999年に迫害が始まってからは、私たちはさらに家族のようになりました。一緒に法を学び、毎週2回の修煉体験を交流し、実証して、どんな時でもお互いに助け合い、支え合いました。
しかし、ここ2年ほどで私たちの間に溝ができ始めました。かつて楽しんでいたような和やかさや友情はもうありません。そこにはもはや相互の思いやりや信頼などはありませんでした。私たちは今も一緒に法を読みますが、修煉の交流は減りました。彼女の「小言」を聞きたくなかったので、本を読み終えるとすぐに立ち去りました。私は彼女の不愉快な態度や表情を見たくありませんでした。師父が私たちにグループで法を勉強するよう求めていなかったら、私は絶対にそこに行くのをやめていたと思います。
私がAさんの事で一番嫌だったのは、彼女は他の物事を知るのが大好きだったので、会うたびに、まず誰が何をしているのか、その人はどこにいるのか、また私がどこの学習サイトに学びに行くのかなどを尋ねることでした。彼女は私よりも年上なので、彼女の質問は大嫌いでしたが、礼儀と敬意を込めて彼女の質問に答えました。時々、私は彼女にそのような質問をしないように間接的に注意をしました。むしろ、その時間を法を読むことに充てるべきだと思いました。しかし、次に会ったとき、彼女は依然としてそれらの質問をしました。私は本当にどうしたらいいのかわからず、無力感を感じていました。
問題に遭遇したときに自分の内側を見つめることについて、師父の教えを聞き、私は長い間、ただAさんを責め続けていたことを思い出しました。これは外向きな心なのではありませんか? 私は修煉者ですが、なぜ自分自身を見なかったのですか? 彼女が質問するのが好きだったとき、いちいち返答をすることが時間の無駄でもっと法に時間をかけるべきだと思っていました。そのことばかりに執着しており、彼女は私のどの執着を取り除くのを手伝おうとしていたのでしょうか?
私も他人のことがとても気になっていたのでしょうか? 自分の内側を見つめてみると、自分も好奇心旺盛で、確かに他人のことが気になるところがありました。もちろん、このような執着心は、私が同修たちと一緒にいるときには現れませんでしたが、他の人や、特に家族と交流するときは、いつも気になっていました。
夫の態度が否定的だったとき、私は不満を感じました。私は彼を困らせたり、彼の態度に何か問題があると批判したりしました。夫は私に余計な事だと言いましたが、私はそれを認めませんでした。時々、私は言い返しました。私の法に対する理解が非常に低く、中国共産党文化を取り除くことができなかったのを見て、師父がAさんの行動を通して私の強い執着心を見せてくれたのだと分かりました。しかし、私はまだ理解できず、この問題は非常に長く引きずりました。私は師父が私に用意して下さった多くの機会を何度も逃しました。とても気まずい思いをしました。
この執着に気づき、変わろうと頑張った時、Aさんは変わりました。彼女はもう他人のことを尋ねませんでした。しかし、下手をするとAさんのいつものくせがぶり返して出てきます。私はついに、彼女の行動が私に自分の問題を理解させるための師父の按排であることが分かりました。師父の御慈悲に感謝いたします。
Aさんが話すときの、堅くて無愛想な表情や態度がとても嫌いでした。私は仕事をしなければなりませんので、パンデミックの影響で勤務時間は頻繁に調整されました。したがって、彼女との学法の時間もそれに応じて調整する必要がありました。私が時間を変更すると言うたびに彼女は興奮して「あなたが決めた時間に変更します!」と大声で言いました。
彼女がそんなことを言うたびに、私は不快な気持ちになりました。私はこう思いました。「なぜあなたの態度はそんなに悪いのですか? あなたは働いていないのに、なぜ学法の時間を変更できないのですか? 私は法を学ぶ時間を自発的に変更したわけではありません。仕事のスケジュールが変わったので変更しなければなりませんでした。なぜ私の状況を理解できないのですか?」
Aさんが怒ったとき、私は不当な扱いを受けていると感じました。私たちは悪い条件で別れることになっていたのでしょう。自分の内側を見つめることで、私は初めて彼女について不平を言うことに自分が執着していることに気づきました。彼女が私の要求に喜んで同意しなければ、私は不平を言ったのです。自分の内側を見つめてみると、自分自身に対して別の強い執着があることに気づきました。私は自分の都合だけを考えていて、私が法を勉強する時間を頻繁に変更することで彼女の予定を狂わせることになるとは考えていませんでした。私はすでに彼女の生活に影響を与えていましたが、後悔することはありませんでした。むしろ、彼女が私の要求に快く応じてくれなかったと不満を言いました。
ここ数年、彼女に対する私の行動を思い出してみると、私はよく遅刻し、彼女は私がドアをノックしても私の声が聞こえないのではないかと心配し、ドアのそばに座って私を待っていました。私が彼女の家に行ってドアをノックしたとき、彼女がドアを開けるのが少しでも遅かったら、私は文句を言い、なぜドアを開けるのにそんなに時間がかかるのかと尋ねました。
彼女はその時、いくつかの非常に重要なことをしていたのかもしれません。これらすべてを思い出すと、彼女はいつも私に対応してくれましたが、私は満足していなかったことがわかりました。私も彼女を批判したり、文句を言ったりしていました。本当に自分勝手すぎて、とても恥ずかしい思いをしました。
これらすべての欠点を見つけた後、私は自分を変えようと最善を尽くしました。彼女の家に遅く到着することもなくなり、法を学ぶ時間も変えないようにしています。私が彼女の家に着いてドアをノックしたとき、彼女がすぐにドアを開けない場合は、その瞬間に彼女が何かをしているかもしれないという事を考えて、忍耐強く彼女を待ちます。私のために、すぐにドアを開けるのは彼女にとってとても大変でした。
師父の法は、いつも自分をみつめ考え直させて下さいました。今、Aさんと私の間に何か衝突がある場合、私は無条件に自分の内側を見つめ、自分を正すという師父の要求に従うつもりです。彼女と私の間の距離は徐々に縮まり、再び法を学び、落ち着いて修煉体験を交流できるようになりました。師父の慈悲深い救いに心から感謝いたします。