問題があった時は自分を修め、他人のせいにしない
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文/ 中国の大法弟子

 【明慧日本2023年10月23日】ある朝、私が起きると既に5時半になっていて、いつもの起床時間より遅くなっていました。「自分は神の道を歩む大法弟子だ。安逸心を取り除かなければならない」と思った私は、自分に教訓を与え、寝すぎて無駄にした時間を取り戻するため、朝食は何も食べず、飲まずで、安逸心を取り除こうと決心しました。

 夫(同修)は突然、理由もなく私の前に座り、私のしてきたことの中で悪いと思うことを何度でも繰り返して批判し、嘲笑してきました。私が何度か言い返すと、彼は力いっぱいテーブルを叩いて罵声を浴びせてきました。 私は少し辛く感じましたが、闘争心や嫉妬心をなくすためには我慢しなければならないと思いました。

 そこで、私は水筒を2つ持って、水をもらいに給水スポットに行きました。しかし、その付近は改築中で、私が通りかかった地域はとても混雑していて、ショベルカーが私の行く手を阻み、私の前を通り過ぎ、ターンをするために前後を逆走していたりしました。そして、浄水器の前まで来て水を汲んでいると、2人の工事現場の作業員が同時にゴミを私のいる方向に向かって掃いてきたりしました。内に向けて探してみると、不服の心、闘争心、嫉妬心があり、これらの悪い心が、このような悪い状況を招いていることに気づきました。 少し言い返すぐらいなら法には反していないだろう思う考えは間違っていたのです。

 水汲みを終えて帰宅すると、夫は再び私のことを非難し始めました。私は業力を取り除くのだと思い、我慢して何も言い返しませんでした。夫には、嫉妬心、争う心、人に言われたくない心、褒め言葉を聞きたがる心、人の過ちを許さない心があり、以前、私は「彼のために、彼の修煉のために指摘しなければ」と思い、いつも彼のこれらの問題を指摘していました。

 ある同修との交流の中で、私のこの話を聞いた同修は、私の方を向いて真剣な眼差しでこう言いました。「これはあなたに与えられた修煉の環境なのに、あなたはそれを拒否しようとしている」私は一瞬頭を打たれたような気がしました。「これは同修の言葉ではなく、師父が私が長い間悟らないのを見て、教えてくだったているのではないのか」と私は大きな声で言いました。「確かにそうだ。私は自分を修めるべきだ。 これは師父が私の向上のために与えてくださった修煉の機会なのに、それを悟っておらず、いつも他の人のせいにしていた」

 私は自分の考えを直し、まず自分を修め、他人の問題から自分の問題を探すようにしようと思い、よくないこれらの人心を取り除こうと思いました。この時、夫は一瞬にして口を閉じ、別人のようになり、嬉しそうに私を見て微笑み、優しく「一緒に学法しないか」と話しかけてくれました。内面に向けて自分の問題を探すと、魔法のような変化が起きたのです。

 ある日、私が夫と一緒に車で通勤しようとした時、夫はマンションの出入口の扉が閉じているのを見て「門を開けっ放しにしてはいけないのか」と文句を言ってきました。私はすぐ「どうしてそんなに不満があるの? もっと寛容な心を持てないの? あなたには恨みの心があるからそれを取り除かなければ」と指摘しようとしました。その瞬間、私はすぐ自分の問題に気づき、また以前のようにすぐ他人の問題に目が向く自分に気づき、すぐに反省しました。自分には夫に対する不満があるから、私に気づかせるために、がそのような言動を取るのかもしれないと思い、自分の不満の心をなくすために発正念をしました。

 その時、曇り空が瞬く間に晴れ渡ったので私はびっくりしました。これは私が考え方を変え、他人の問題から自分の問題として反省するという修煉者のあるべき姿になっていたので、師父が私を励ましてくださったのだと思いました。

 単純に考え方を転換するだけで、修煉の方向性について180度の変化があったのです。

 師父は「特に中国の邪悪な宣伝の中のそれらのへ理屈に対してはなおさらそうです。たとえば、『他の人に正しく行いなさいと言う前に、まず自分が正しく行わなければならない』ということを宣伝していますが、この話が正しいかどうかを皆さん考えてみてください。多くの人はこの話を口実に自分の過ちを隠し、それを直そうとしません。特に自分自身に問題のある人はこれを真理として掴んで放しません。皆さんに教えますが、この話は絶対間違っています。過ちのある人はあなたに正しく行うようにと言ってはいけないのでしょうか? 過ちのある人は他の人に正しく行うようにと言ってはいけないのでしょうか?」[1]と説かれました。

 私には、正にこれらのよくない観念があったのです。結局のところ、長年、夫は私の向上のために、私を非難してきましたが、私はこれらの観念に縛られ、いつも彼の非を言い返し、多くの向上できる機会を逃してしまったのです。

 以前の私は、夫は人心が多くてわがままだと思い、いつも彼を見下していました。そのため、夫が私を非難する時は、いつもそれに納得がいかず「あなたは真面目に修煉もしないくせに、いつもこうやって私を馬鹿にして批判している。 あなたはまともに修煉ができていないのに、なぜいつも私の問題ばかりに目を向け、自分の問題は直そうとしないのか?」と不満を言っていました。「自分がまともにできないくせに、なぜ私のことを言うの?」という観念は、他人ばかり見ていて、自分は変わろうとしないというものでした。私の問題はここにあったのです。師父は何年も前から教えてくださいましたが、私は今になって気づいたのです。

 また、本当に我慢できるようになるためには「手放す」ことが必要であることも学びました。私は、我慢して反論はしないものの、心の中で考えてしまうことがよくあり、料理をしているときに考え込んでしまう時があります。しかし、考えすぎると、知らないうちにまた不平不満の心が生じてしまい、だんだん腹が立ち、頭もざわざわしてしまい、とても耐えられなくなります。

 私は師父が与えてくださった修煉環境を大切にし、問題があった時に、それを外に向けて押し出すだけではなく、神の道を歩む、本当の修煉者になろうと思います。

 上記は個人的な認識であり、もし法に沿っていないところがあれば、同修たちの慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:「各地での説法四」『二〇〇三年アトランタ法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/10/20/467262.html)
 
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