大学教授「大法に出会ったのは千載一遇の幸運」
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2023年12月10日】私は大学教授で、もうすぐ70歳になります。 2017年から大法を学び始め、6年が経ちました。この場を借りて師父に感謝の意を表し、自分の修煉体験を師父にご報告したいと思います。

 私は大法を学ぶ前に、道教と佛教を追求していました。2004年に道教を学び始め、2010年に佛教を学び始めました。私が佛教、道教を修行する過程で、末法時期の佛教、道教はもはや人を済度することはできないと実感したのですが、大きく印象に残ったことが3つあります。まず1つ目は、佛教と道教を修行する目的は、常人となり、名声と富を求め、災いや病気を取り除くことです。これは、大法を学んでから間違いだと気づきました。修行する者は、佛教・道教を信仰していますが、常人の中での名声や富と欲望に溺れています。2つ目はさらに衝撃的で、私の佛教と道教を修煉する自信をほぼ瞬時に打ち砕きました。それは、2016年に突然脳梗塞を発症したことです。大事には至らなかったものの、当時の私は自分の身の回りのことをすることがままならず、以前のクールで機敏でエネルギッシュな状態ではもうありませんでした。私は混乱しました。これまで病気になったことがなかったのに、佛教、道教、練功、座禅、それに形意拳まで練っていて、なぜ突然病で倒れたのでしょうか? 3つ目は、自分が大法を煉って初めて分かったことですが、つまり、佛教や道教を修め、さらに形意拳も練り、この法門あの法門を学び、師父が教えてくださった不二法門を犯し、全身がめちゃくちゃになっていたということです。

 病気になった初期の頃、私はまだ佛教のお経を暗記していましたが、効果はありませんでした。一般の師がいますが、彼は自分のことで精一杯でした。しかし、天意により2017年、私は明慧ネットで『轉法輪』という貴重な本を手に入れ、大法を学んで大法弟子になりました。私は、過去の佛教・道教の修行と一般の師を手放し、徹底的に放下しました。一度手放すと不思議なことに、とてもすっきりしました。例えば、あれほどよく暗記していた佛教のお経は、脳内にその概念も痕跡も全くなくなりました。これは大法の威力を示しています。

 大法を得た後の最初の難関は、病気を治したいという執着を手放すことでした。私は、法を学ぶことで以下のことを理解しました。第一に、人が病気になるのは、度重なる前世で、悪いことをしたことによる業力が原因であることです。 第二に、病気を取り除きたいなら、まず病気を取り除きたいという執着を手放さないといけません。欲をなくせば自然に得るのです。第三に、修煉によって業力が解消され、業力が解消されれば、病気も自然に消滅します。第四に、苦難に耐えて業力を解消し、心性を向上させます。第五に、修煉者には病気はなく、修煉者の基準を守り、大法に同化すれば、病気は自然に消えます。これらの法理を本当に理解するのに、2年の修煉が必要でした。今でも時々「病業」はありますが、それを全く気にせず、また、その「病業」に苦しみながら自分の次元の向上を目指します。つまり「病」という魔難は自分を高めるチャンスなのです。

 大法を煉れば福が得られますが、大法弟子は修煉しても福を求めません。 福報を求めるのは常人の心であり、大法弟子は必ずこの求める心を手放さなければなりません。人の福報は生生世世に積み上げた徳によってもたらされ、大法弟子も例外ではありません。しかし、大法弟子と常人との違いは、福報に執着しないことです。一般の人は損得を気にし、名声や利益への執着が強く、よって心身を疲弊させます。 かつての同修が福報を求めて心からの九文字を唱えていたことがありますが、まさに常人の心を放下できず、修煉者の境地を常人の水準まで下げてしまいました。常人は心からの九文字を唱えて福報を得ますが、それはただの常人です。修煉者は常人の境地から抜け出し、常人の考えをすべて捨て、執着をすべて放下しなければなりません。大法弟子は必ず善を修め、慈悲心を修めなければなりません。

 今世で大法を得ることは千載一遇(めったにないよい機会)の幸運であり、弟子は師父に感謝いたします。人間であることの究極の意味を弟子に示し、人間の苦境から抜け出させてくださった師父に感謝いたします。そして、人生をあらたに段取りし、弟子の修煉が円満成就する天国への道を切り開いて下さった師父に御礼を申し上げます。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/12/2/468817.html)
 
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