文/中国河北省の大法弟子 一梅
【明慧日本2024年1月5日】去年のある日、私は子供を迎えに行くために自転車に乗って、学校へ向かう途中、交差点で角を曲がってきた乗用車にひかれました。私は後頭部が地面に当たり、投げ出され、道路を塞ぎました。乗用車から下りてきた運転手は、この事故は私の責任だと言いました。私は自分に道理があると思い、「私は直進していました。あなたは向かい側から左折したのだから、私を先に行かせるべきです」と言いました。その人は「あれ、あれ」と言いながら、不本意そうに私に手伝って自転車を立て直してくれましたが、自転車はひどく変形し、私の両脚はあざだらけでした。その時、私は考えました。「私は修煉者だ、大丈夫」。こうして、その運転手には帰ってもらい、私は子供を迎えに行きました。数日後、脚のあざが治り、小さな黒い跡だけが残りましたが、自転車は修理することができませんでした。
今年の春のあるお昼、私は子供を迎えに行った後、自転車に乗って帰宅する途中、坂道を下っている最中に、突然、前方から電動バイクが横切り、道の真ん中で停止しました。私はブレーキをかけるのが間に合わず、電動バイクに衝突してしまい、私と子供は投げ出されてしまいました。もし、彼が停車しなければ事故は起こらなかったはずです。しかし、私は怒りませんでした。私は、はっきりと認識していましたし、運転手は私とぶつかりたくないから停止したとのことでした。結果は予想外にも、私と子供は投げ出されました。しかし、全く無傷で、自転車にも損傷はありませんでした。私の身体にはホコリもついていませんでした。その後、私は当時の出来事を繰り返し思い出しました。それは本当に不思議なことで、他人を思いやる心が、異なる結果をもたらしたのです。師父は、私にこの難関を乗り越えさせてくださいました。師父に感謝致します。
今年8月、私は娘と一緒に実家で父親の世話をしていました。ある日の午後、娘が突然、腹痛を訴えました。最初は食べすぎて消化不良だろうと思い、温かい白湯を飲ませました。しかし、その後も娘は痛みを訴え続け、吐いたりもしました。私は娘に心からの九文字「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」を念じてもらいました。しかし、娘の痛みはどんどん激しくなり、最終的には大泣きし、顔中が汗だらけになり、上下の歯が絶えずガタガタと震えていました。
私も少し焦ってきました。「病院に行こうか?」と娘に尋ねると、娘は行かないと答えました。実際、病院に行くとしても、私は娘を背負って連れて行くことができず、娘も電動自転車に乗ることができませんでした。私は娘に心からの九文字を念じ続けさせ、娘のお腹を揉みほぐしましたが、娘は泣き続け、かなりの時間が経ちました。私は手詰まりでした。
父は裏の部屋で子供の泣き声を聞いて、「どうした?」と一言だけ言うと、父は部屋から出て、なぜ泣いているのか状況を確認しようともしませんでした。私はその時とても悲しく、無力感を感じました。子供ももう小さくないのに、こんなに簡単に泣いてしまうのでしょうか? しばらくたっても、父はまるで何事もなかったかのようでした。最近、父の体調が悪くなってきているので、父の心は自分のことばかりでした。
私は子供のお腹を揉みながら、子供に対して自分の心の考えを言いました。「ほら、私心というのはどれだけ悪いのか、自分のことばかり考えて、心には自分だけしかなく、他人には全く無関心。あなたのおじいさんの身から、その私心が見えました。こんなに大きな騒ぎがあるのに、全然来て見ようともしない。この私心は本当に怖いし、とても醜いものだよね」話しているうちに、私は自分の鏡になってくれた父の身からその私心を見出しました。その時、私はその私心に対して強い嫌悪感を感じ、父親を責める気持ちもなくなりました。私は子供に続けて言いました。「この私心は受け入れてはならないよ、本当に良くない」話す間に、子供は瞬時に痛みがなくなり、「良くなった、お母さん!」と嬉しそうに言いました。
師父は『轉法輪』でこう説かれました。「思想の境地がわずかでも高くなったらその分だけ、自分自身の悪いものも取り除かれたことになります」
心性が上がってくると、身体にも大きな変化が訪れました。これは師父が子供の出来事を通じて、私に父の身から良くない私心、不善良さを見せてくださり、それを修め、無私無我の基準に達するように促してくださいました。
師父の慈悲に満ちた悟らせに感謝致します! 弟子は精進し、着実に修めて、師父の済度に報いるように致します。
(編集担当者:文謙)