文/海外の大法弟子
【明慧日本2024年5月22日】(前文より続く)
3、親の言葉と自らの行いは、子供に手本を示している
1)相手を理解し、恨みを持たないように、幼い頃から子供に教える
娘がまだ幼稚園児だった頃、ブランコで遊んでいたら、他の子がぶつかってきたことがあります。夕方、私が娘を迎えに行った時は気づかなかったし、幼稚園の先生も何も言いませんでした。夕食を食べている時、娘は口を開けるのに苦労するほど顔の半分が腫れ上がっていることにやっと気づきました。何があったのかと聞くと、ブランコで他の子にぶつけられたのだと言いました。心が痛くなって、なぜこんな大事故を親に知らせなかったのかと、担任の先生にすぐにでも聞きに行きたい気持ちでした。
その時、娘が私の表情を注意深く見ているのが分かりました。きっと、母親がこういうことにどう対処するのかを知りたかったのでしょう。「明日、このことを先生に聞いてみようか」と聞くと、娘は「分からない」と言いました。私は少し落ち着いて、娘にこう言ったのです。「ママの話を聞いてちょうだい。起こったことをなかった事にするのは不可能ね。さっき、ママには確かに先生に告げたい気持ちがあったわ。それはね、お金(賠償)が欲しいわけではなくて、その子に謝って欲しかったからなの。でも、その子はわざとしたわけではないから、先生もママが大げさに言うことは望んでいないだろうし、先生に聞きに行かない方がいいと思うの。だから、ママも心の中で恨んだりしないわ。師父が『轉法輪』の中で、五十代の女性が猛スピードで走ってきた車に服を引っ掛けられた話を覚えているでしょう? 『運転手がスピード違反をしたことは確かです。しかし、彼もわざと人にぶつけたわけではありません。彼は不注意で事故を起してしまったのではありませんか?』」。娘は頷き、「分かったわ。でも、他の子がぶつけられないように気をつけてほしいと、先生に言って?」というのを聞いた私は、娘を褒めました。「もちろんできるわ。これは他の人のために考えていることだからね」。それから数日間、娘はストローで食事をしなければならなかったのですが、ずっと楽しそうでした。一方、私のほうが時々、不平不満が心に湧いてきて、またそれは正しくないと思い、感情を押さえました。
それから、娘が傷ついた時、私自身が完全に放下したかどうかは別として、いつも正しい道理で娘を教育し、相手に寛容になり、恨みを抱かないような考え方を身につけさせようとしました。私の世代の人々は、中国共産党の憎悪宣伝の下で育ったため、非常に強い恨む心を持っており、完全に除去するのは難しいのですが、子供が健全に成長できるように、幼い頃から身をもって手本を示さなければならないと分かりました。長年の修煉を経て娘は本当にそれを実行し、遭遇した不当な扱いに優しさと許しをもって接し、内に向けて自分の問題点を探す姿勢を見て、私はとても嬉しく思います。
2)伝統文化に従って親孝行をする
娘は私の母に溺愛されて育ちました。しかし、8歳くらいになったある日、娘が祖母に愛想のない話し方をしているのを見ました。注意したら改善しますが、数日経ったら元通りになっています。私は、幼い頃から親孝行をしっかり教えて良い子だったのに、どうしてこんなことになったのかと考えました。内に向けて見つめ直すと、自分自身に問題があったのだと分かりました。表面的に私はとても親孝行をしており、優しく両親の面倒を見ていますが、口調にせっかちな時があり、尊敬の意を欠いていました。ですから今、娘もその良くない部分を真似しています。
娘と真剣に話し合いました。私は自分の問題点を誠実に娘に伝え、修煉とは大法の法理に従うことで悪い手本を学んだりしてはいけない、その手本は誰であれ、誰でも過ちを犯す可能性がある、どんな時でも真・善・忍の基準で物事を測ることなどを教えて、また、率先して母に謝りに行きました。私の言葉と行動は娘に大きな影響を与え、娘は敬服な眼差しで私を見つめました。その事を通して、修煉とは何かを娘は以前より分かるようになったと思います。
それから、娘は私より祖父母に孝行できるようになりました。ある問題について私が母と議論した翌日、娘は「おばあちゃんと議論しちゃダメよ」と言うので、私は 「おばあちゃんが言ったことは間違っているのよ」と言うと、娘は「それでも口論になるのは良くないし、おばあちゃんが落ち着いてから話すと、はじめて良い効果を収められるの」と言いました。私からすると、母の理解力は悪くて、時間をかけて教えたものをなかなか覚えられないため、最後に私も焦って諦めてしまいますが、娘は「おばあちゃんはきっと覚えられるのよ、お母さんが焦れば焦るほど、お婆ちゃんは覚えられない」と言うのです。娘が教えると、私より良い結果が出ることもあります。
3)責任感
私はよく娘に師父が言ったことを言い聞かせます。「あなたが学生ならば、あなたの本分は勉強をきちんとして、両親や学校、先生の期待に背かないようにすることです」(『轉法輪法解』「広州での説法質疑応答」)。小さい時からの修煉の基礎があるので、師父が言われた通りに実行すれば、はじめて事がうまくいくと娘には分かっています。そのため、私に催促されなくても娘は進んでしっかり宿題をやって、時間がない日でも夜中までには宿題を完成させ、決して先生に宿題の提出が遅れるなどと言いませんでした。また、夏休みに「時間管理」の講習を受け、上手に時間を管理することを学びました。娘はGPA4.0(成績評価の指標)の良い成績で高校を卒業し大学へ進学しました。今、大学での成績もほぼ全部Aです。
娘は自分の部屋をきれいに片付けているだけでなく、パソコンの中のファイルに本や洋服まで、どんなものも分類され、決まった置き場所があり、整理整頓をしています。少し成長してからは、父の手伝いをして小型の家具の取り付け、電化製品の電池交換、部屋の片づけなどをします。さらにダイニング、リビングの家具のレイアウトまで考えてくれて、家庭に対する責任感が強いです。
このような少しも親に心配をかけない娘がいながら、私は自分の執着心のせいで心性の関に遭いました。ある日、私に、娘の学校で清掃をやっている女性が「娘さんをしばらく観察していたのですが、あまりにもおとなしくて、何に対しても争う意識がないようです。クラスメートにいじめられているのに自分がいじめられているとあまり認識していないようです。社会に出たら、きっとよくいじめられるだろうと思います。今の社会はこんなに複雑だから、娘さんはきっと出世できないし、私の提案ですが、娘さんは大学に行く必要はないし、何か商売をやって、かろうじて食べていけたらいいのではありませんか」と言いました。私は一瞬、言葉を失いました。
その後数日間、その女性の言葉がずっと脳裏から離れず、とても複雑で苦しい心境になりました。私は長年にわたって真・善・忍の原則に従って娘を教育し、どれほど出世できるかは期待していませんが、でも娘は本当に頭が良くて、親切で、責任感が強く、学業も優秀で、どうして突然「いじめられっ子、将来は食べてはいけそうもない人」になってしまったのでしょうか。私は極端に娘を良い人になるように教育しすぎたでしょうか。
その後、ある日のことですが、同修Aさんと一緒にいた時、「何か心配事しているようだね 」とAさんに聞かれて、「娘がおとなしすぎて、いじめられないかを心配しています」と言ったら、Aさんは「心配しすぎだよ。善良な人にはそれなりの生存の道があると、私はいつも思う。私も子供の頃からとてもおとなしくて、いじめられたこともあったかもしれないけど、すごく悪い人生を送ったとは感じていない。善良な人は、凡人にバカにされるかもしれないけど、天は善良な人をバカにしないよ」と言ってくれました。
私は娘に法輪大法を修煉させたのは、「天はきっと善良な人を祝福する」と信じているからではないでしょうか、どうして例の女性の言ったことのせいで混乱するのでしょうか。娘に対する情のせいで、修煉の道理を忘れてしまったようです。誠実な人はきっと失敗した人生を送ると、誰が決めたのでしょうか、同修Aさんは仕事が成功し、家庭が睦まじいという良い例ではありませんか。さらに言えば、娘は恨む心を持たないまま育ったため、いじめられたとは思っておらず、見返りを求めず人に親切にしていますが、しかし、親としての私自身が損を蒙るのを恐れて、娘のために不平不満を思っています。
今、娘は18歳になり、家から遠く離れた大学で一人で修煉を続けています。師父が娘と私たち家族に与えてくれたすべてのものに感謝しています。また、娘が人類社会の正義を担う力になりつつあることを嬉しく思います。
(完)
(明慧ネット第24回世界法輪大法デーの入選文章)