文/ 中国の大法弟子
【明慧日本2024年3月11日】私は1998年に大法を得て、20年以上学んできました。三つの事を行うことについては、精進していると感じていますが、20年以上の修煉の中で、多くの人心や執着心を捨て去るのは本当に難しいと感じています。
中には、頻繁に表面に現れる人心もあり、何度も何度も現れる執着もあります。 私は反省して、何度も内に向かってそれらの執着心を見つけ、悟ったはずですが、しばらくすると再び現れます。長年、このような状況に悩まされ、なぜなのか分からずにいました。
2019年に再び法を暗記し始めてから、段々とこうした人心や執着心が再発する本当の理由が分かりました。これらの人心や執着心に対して内に向かって、それを見つけただけで、根から取り除いていないこと、つまりニラを切るように、地面の葉っぱの部分を切り落としただけで、根こそぎは取り除いていないため、また生えてくるのだということに少しずつ気づくようになりました。 ある種の執着の場合、表面的な原因しか見つからず、深く掘り下げることはなく、根がある場所を掘り下げて探すことができないのです。 例えば「顕示心」を見つけたとして、なぜ「見せびらかそうとする心」が存在するのか、その根源は何なのか分からないのです。 別の例では、嫉妬心、なぜ嫉妬の心が存在するのでしょうか? そして、歓喜心、良いことを聞くのが好きな心、利益の心、これらの心はしばしば繰り返されます。 実は、法を暗記することを通じて、これらの心が繰り返される本当の理由は、私がまだ「利己的」な私心を持っているからだと気づきました。 この「利己的 」な心が、こうした心の再発を招いているのであり、この根を掘り出せば、すべての心の根が存在しなくなり、根がなければ、取り除くことも容易になります。
問題の根源を見つけた後は、自分の一つの考えや一つの念(思い)から自分の行動をチェックします。自分の行動と「利己心ー私」との間に関係があるかどうかに注意を払い、つながりがあれば即座に自分の考えや行動を修正し、自分の言動が「利己心ー私」から切り離されるようにします。 例えば、昔、娘が物の無駄使いをしているのを見るたびに、私の心は憤慨し、婿が衛生に気を配っていないのを見るたびに、私の心はまたためらい、小さな孫の悪い習慣を見るたびに、また辛い思いをし、何かを言わなければ心を静めることができませんでした。 これらの現れはすべて、表面的には些細なことのように見えますが、根源を探ると、すべて自分のためであり、自分が快適になるためであり、自分が良い気分になるためであり、師父の教えに従った行いではありません。
師父はこのようにおっしゃいました。「私たちが言っているのは、自分からしっかり行なうことであり、誰もが自分をしっかり制御することができれば、社会が良くなるということです。みなが他人を管理すればするほど悪くなり、トラブルも多く現れます」。 『長春輔導員法会での説法』
私は師父の言葉に耳を傾けず、真の修煉者として振る舞っていなかったこと、本当に法理にふさわしい正しい行いができていないため、周囲との不調和につながっていたことに気づきました。まずは自分から正しくなることを意識し、自分を変え、あらゆる面で常人と混同しないように、常に修煉者としての振る舞いを心がけました。 また娘が物を無駄にしているのを見たら、拾って、使えるものは使い、食べられるものは食べ、そして娘に「質素倹約は中国の伝統的な美徳なんだよ」と伝えます。 婿の衛生観念の欠如に対しては、汚れた服を洗濯して元に戻し、孫の悪い習慣のいくつかに対しては、伝統文化を通して教育し、伝統文化の小さな物語を聞かせて、改めさせます。
私が自分をちゃんと管理し、正しくすると、生活環境はすぐに変わり、娘は無駄遣いをしなくなり、婿は身の回りの衛生に気を配り、孫は物わかりがよくなり、言うことを聞くようになりました。
以上の例から、人心を取り除くということは、意識するだけでなく、実行すべきことなのだと悟りました。 人心を根絶するという目的を達成するためには、それを認識するだけではなく、その根っ子を見つけなければならず、根っ子まで掘り出し、続けて取り除く必要があるとわかりました。
個人的な認識の一部です。正しくない点があれば、ご指摘ください