文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年7月21日】ある日のお昼、親族の女性同修Aさんが突然やって来て、彼女の家族が派出所からの嫌がらせの電話を受けたと教えてくれました。Aさんは法輪功の資料を移動させるために私に協力を求めていました。しかし、最終的に午後に再度返事をすることになりました。Aさんが去った後、私は師父に線香をあげました。師父のご加護と啓蒙を求めると同時に、この件において無条件に同修Aさんに協力し、大法の事を最優先にすることを師父に誓いました(当時、私はAさんと個人的なトラブルを抱えていました)。
線香をあげ終えた後、大法の書籍などを整理しようと考えました。しかし、師父の法像については「違う、師父の法像が供養されている場所は師父の場所であり、誰も動かすことはできない」と思い、すると強い正念が湧き上がりました。その直後、ちょうど全世界の発正念の時間になりました。私は発正念しながら、師父の加持を求めました。すると、空間場が一気に清らかになり、私は師父が悟らせて下さったのだと感じました。心の中の恐れの物質はほとんどなくなりました。
そして一念が浮かびました。このような虚像が現れたのは、私の修煉に不足があるからだ、と。そこで内に向かって自分を探し始めました。しかし、表面的な闘争心、怨恨心、報復心、恐怖心、誉め言葉だけ聞きたがる心、嫉妬心などを見つけただけでした。午後、法を学びながらも内に向かって探しましたが、根本的な問題を見つけることができませんでした。
法を学び終えた後、再び発正念を行い、内に向かって探し続けました。その時、数日前に法を学んだ際に悟った「真相を伝えることは衆生を救うことである」という認識を思い出しました。そして、私が真相を伝える時の根本的な問題は人と争うことであると分かってきました。
さらに数日前、同修の書いた修煉体験文章を読んだ際に自分の考え方が変わったことを思い出しました。大法弟子は皆、光り輝く存在であり、私たちが真相資料を配布したり、対面で真相を伝えたりするのは、衆生を救うことであり、宇宙で最も正しいことをしているのです。邪は正に勝てない、本当に恐れるべきは邪の生命であり、私たちがそれらを避けるべきではなく、それらが私たちを避けるべきであり、それらが私たちに会うと恐れるべきなのです。
師父はこう説かれました。「人間は神に対して何ができるのでしょうか? 外的な要素がなければ、人間は神に何ができるのでしょうか? 人類社会での現れは高次元生命の制御によってもたらされたことに過ぎません。」(『精進要旨三』「法を正す中で必要なのは正念であり、人心ではない」)
そこで私は、現地に対する発正念を強化し、現地の真相を知らない世人を操り大法弟子を妨害し迫害する邪悪を取り除く一念も加えました。また、体制内の人々に対する怨恨が少なくなり、善念が増えました。警官も師父の親族です。私たちは、迫害される立場と、迫害を行う側ではなく、救うと救われる関係であるべきです。
私は理解しました。党文化は私に体制内の人々を全員対立する側に押しやりました。彼らを思い出すか、彼らに会うと、心の中で彼らは悪いと思い、好意を持つことはなく、ましてや善念を抱くことはありませんでした。その時、この虚像は私が党文化の思考観念を持っているために現れたのだと理解しました。ここまで書くと、自分の問題を見る境地が低かったことが分かりました。また、最近自分に起こった妨害もこの問題が原因であると認識しました。
こうしてしばらく経つと、Aさんがやってきて、私に「資料などは一切動かさないことに決めた」と伝えてくれました。そして、その夜、私と一緒に同修Bさんの家に行って交流したいと話し、「行く勇気がありますか?」と尋ねました。私は「あります」と答えました。行く途中でまたAさんがまた「怖くないですか?」と聞きましたが、私は「怖くないです」と答えました(その時、私は本当に勇気があって、怖くなかったのです)。Aさんと前後に歩いている時、心の中で「師父に無条件で同修Aさんに協力することを約束した。たとえ前方に極めて危険で困難なことが待っていても、Aさんに伴って進む」と思いました。Bさんの家に着く前に、道中で同修Cさんに会い、Bさんの夫が帰ってきたため、Bさんの家は難しいと言われました。そこで再びAさんの家に戻って交流をしました。
交流の間、私はAさんの家で恐れをまったく感じず、心に恐怖の念も浮かびませんでした。夜の10時30分ごろに交流が終わりました。家に帰る夜道で、師父は私に恐れのない感覚を感じさせてくださいました。周囲のすべてが穏やかで素晴らしいものでした。以前、私は夜道を歩くことができず、家に入ってもまだ怖い状態でした。私をよく知っている同修は家の入口まで送ってくれて、私が家に入るのを見届けてから離れていきました。同時に、これは自分が正しい悟りを得て正しい行いをした結果、師父からの励ましを受けたことだと分かりました。
以上は私の最近の修煉体験の一部です。次元に限りがありますので、不適切なところがあれば同修のご指摘をお願い致します。