文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年10月23日】最近、同修の「修煉ができる人とできない人の違い」に関する交流文章を読み、大きな衝撃を受けました。この文章を三度も繰り返し読みましたが、その内容がまさに今の私の修煉状態と重なっていたのです。私は問題が起きるたびに自分を正しく保つことができず、人心や常人の念にとらわれ、表面的な争いに巻き込まれてしまいがちでした。「私が正しい、あなたが間違っている」ということを証明しようとしていました。今になって、これがまったく修煉者としてあるべき状態ではないことに気づきました。長い間、私は自分を修めるのではなく、他人を修めることばかりに意識を向けていたのです。師父の法を引き合いに出しては他人を批判し、言葉の上ではそれらしいことを言うものの、実際には自分を高く見せ、修煉が進んでいることを証明しようとしていたのです。相手が少しでも私を褒めると、さらに調子に乗り、まるで天にも昇るような気分になっていました。
例えば、同修のAさんが配偶者との間にトラブルを抱え、心性の関を乗り越えられず、私に不満を訴えてきた時のことです。Aさんは配偶者のことをあれこれと批判し、相手の欠点ばかりを強調していました。その時、私の顕示心理が顔を出しました。事情の詳細も聞かず、誰が正しいかを気にすることなく、「修煉者として対立している時点であなたは間違っています。師父はこの点について以前から法を説かれていますよ……」と、さも自分が正しいかのように話し始めたのです。この言葉自体は間違っていませんが、その背後には自分を顕示しようとする心が隠れていたのです。
また、同修のBさんが兄弟と財産分与で不公平があったと感じ、心性の関を乗り越えられずにいる時、私はBさんの「利益を求める心」を見て、自分の修煉が進んでいることを証明したいという気持ちが再び現れました。「修煉者は名や利、感情を重要視すべきではありません……。常人のように暮らしていてはだめです」と言いましたが、これもまた、表面的には正しいことを言っているように見えて、実際には自分を顕示し、名誉を求める心や修煉が進んでいることを証明しようとする心から出た言葉でした。驕り高ぶり、他人を見下す心が背後にあったのです。
「狡猾さ」は修煉の道での障害
最近、同修の交流文章をいくつか読みましたが、その多くが「狡猾さ」に関する話題でした。これらを読み終えた後、私は驚きました。というのも、大小を問わず、どのような問題に直面しても、「狡猾さ」が人の思考を操り、自己を守ろうと常に言い訳し、自分を弁護し、結果的に邪悪な勢力に迫害の口実を与えてしまうのです。
特に、ある同修の苦い体験を読んだ後、私も自分自身を見つめ直すことにしました。その結果、私も修煉の中で、この「狡猾さ」によって長く左右されていたことに気づいたのです。過去、誰かが私に「狡猾だ」と言っても、私は決して認めませんでした。むしろ、自分は率直な性格で、言いたいことをそのまま言い、回りくどいことはしないので、狡猾ではないと反論しました。しかし、自分の主張に執着し、常に自分を弁護すること自体が、善とは程遠いものでした。
内に向けて自分を探して気付いたのは、言葉でも行動でも、確かに微妙に狡猾さが混じっており、それは自己防衛の心から生じているということでした。この狡猾さは、実は中国共産党の影響によって植え付けられたものでもあります。例えば、他の同修が真相をうまく伝えると、周囲の人々が羨ましがる一方で、私は嫉妬心を抱きました。「ただ真相を伝えているだけでは法を学んでいない。行動だけでは衆生を救うことはできない」と自分の心の中で否定してしまうのです。また、年配の同修が毎日2~3講も学法をしているのを見て、「学法しても心に入っていないのなら無駄だ」と嫉妬心が湧いてきます。嫉妬心もまた、狡猾さの一部です。
さらに、嘘や大げさなことを言うことにもためらいがなくなり、同修が病業に苦しんでいる時にも、心からの善意で助けるのではなく、口では立派なことを言いながら、心の中では「自分は正念が強いから大丈夫だ」と感じている自分がいました。これこそ「偽りの慈悲」であり、偽善に他なりません。心の中では邪悪な感情が渦巻いているのに、外見だけは善良さを装っているのです。
修煉者は口を修めなければならない
修煉者として、口を修めることが大切であることはよく理解しています。必要なことを言い、言うべきでないことは決して口にしない。それでも、いざ実際に事が起こると、この戒めを守ることができずにいます。以下の二つの出来事は、私が再びこの戒めを破ってしまった例です。
1.先日、同修の家に行った時のことです。ベッドの上に真相資料が置かれているのを見つけましたが、その資料は文字が小さく、レイアウトも整っていませんでした。私は同修に「これはどこから来たのですか?」と尋ねると、「Cさんが市場でDさんに渡して、それを私に回してくれたものです」と言いました。「読みましたか?」と聞くと、「文字が小さすぎてまだ読んでいません。あなたも読んでみてください」と言われました。
私はその資料を手に取りましたが、明慧ネットのものではないことにすぐ気付きました。タイトルも中心に配置されておらず、読む気になれませんでしたが、ついででしたので、少しだけページをめくってみました。すると、突然、「中医学では足の裏の色で病気を判断し、五色(青、赤、黄、白、黒)がある。以下がそれぞれの色に関する説明である」という一文が目に飛び込んできました。瞬時に「これはおかしい」と思い、同修も「もう見なくていいです」と言い、その資料を焼きました。
翌日、学法の場で、私はこの出来事を他の二人の同修に話しました。1週間ほどして、Cさんが自宅に戻り、私に電話で「来てほしい」と言ってきました。私たちは古くからの同僚で、お互いに率直に話す間柄です。彼女は私に会うなり、「同修が私の資料に問題があるといいました。本当に問題があるのですか? 何が問題なのですか?」と少し怒り気味に問いかけてきました。その瞬間、「また私の口が災いをもたらした」と思いましたが、心の中では「言われた以上、はっきり言わなければ」と思い、私も正直に言いました。
「私たちが使う資料はすべて明慧ネットからのものでなければなりません。あなたが持ってきた資料は明慧ネットのものではなく、文字が小さく、レイアウトも整っていませんでした。でも、それは調節できることだから大丈夫です。問題は内容のほうです」と伝えました。彼女は「私たちのグループで読んだときは何の問題もありませんでした。どうしてあなたは問題があると思うのですか?」と反論しました。私は「あなたたちは気付かなかったかもしれませんが、私たち三人の同修はその問題を見つけました。特に、Dさんは靴下を脱いで、ほかの同修に彼女の足の裏までを見せたのですよ!」と言い返しました。
私たちは言い争いになり、どちらも納得できずにいました。そこで私は、「これ以上争うのはやめましょう。この出来事は偶然ではないはずです。お互いに自分を見つめ直しましょう。何か修めるべきことがあるはずです」と提案しました。
家に帰った後、私はインターネットでその資料を検索し、再度読み直しましたが、私が指摘した内容がどこにも見当たりませんでした。まるでその部分が消えてしまったかのようでした。これは師父からのメッセージだと感じ、よくよく自分を見つめ直しました。最終的に、師父はこの方法で私に「口を修めること」を教えてくださったのだと気付きました。曖昧な情報を広めたり、物事をよく確かめずに話すことは、修煉者として慎むべきであると深く悟りました。
2.ある日、年配の同修の手伝いで畑作業をしていた時、その同修は「昨日、同修のEさんがうちの義理の息子(常人)を訪ねて足を診てもらいました」と話しました。Eさんの義理の息子は中医師です。その話を聞いた時、私は少し半信半疑でしたが、次の日の午後、Eさんの家を訪ね、このことの真否を確かめることにしました。もしそれが本当であれば、彼としっかり話し合わなければならないと思ったからです。
Eさんの家に着くと、彼は「明日は気温が下がるから、先にお風呂に入る」と言いました。その後、私は彼の奥さんとこのことを少し話して、その場を後にしました。
その夜、発正念の直後にEさんが訪ねてきて、「誰から聞いたのだ? 私が常人の道を歩んでいるなど!」と言いました。私は「年配の同修がそう言っていました。彼女の義理の息子があなたの足を診て、さらに脈を取って心臓に問題があると言ったと聞きました」と答えました。するとEさんは「確かに行きましたが、彼女が言っていた理由とは違います。私はネットに繋がらなくて、同修に助けを求めに行っただけです。彼女の義理の息子が私の足が不自由だと気付いて、ついでに診てくれただけです。彼は糖尿病だと言いましたが、私はそれを認めていません。脈を診て心臓に問題があると言ったのはその通りですが、私は確かに心性の問題を抱えています。しかし、だからと言って私は常人の道を選ぶことはありません。みんながこのように噂を広めたら、私は本当に常人扱いされてしまいます」と話してくれました。
私はすぐに、「詳しい事情を確かめずに噂を信じ、誤解を広めてしまい、あなたに精神的な負担をかけてしまいました。この件はここで終わりにします。明日、年配の同修にこのことを説明して、誤解を解きます」と謝りました。
私自身、口を修めることができず、好奇心や噂話に対する興味から、軽々しく他人に伝えてしまいました。それによって多くの業力を作り、同修に精神的な負担をかけてしまい、結果として邪悪な妨害を引き寄せてしまったのです。
法を正す過程が終わりに近づいていますが、まだ終わっていません。まだ時間が残されている今、これからは自分の口をしっかりと管理し、同じ過ちを二度と犯さないことを決意しました。師父の慈悲深いご守護に感謝し、弟子としてさらに精進し続け、師恩に報いる所存です。