スマホへの依存を放下した後の体験
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2024年12月9日】

 携帯電話の害

 私は「90年代生まれ」の青年弟子です。14歳の頃からオンラインゲームに夢中になり、学校をサボってはよくインターネットカフェに通っていました。夜になると、家族が寝静まった隙に外に出て、徹夜でインターネットカフェにこもることもありました。しかし、修煉を始める中で、ゲームへの依存を断ち切ることができました。

 成長するにつれ、スマートフォンの普及に伴って、動画に対する執着が出てきました。韓国の漫画、日本のアニメ、中国の80年代の漫画解説、さらにはホラー映画など、多種多様なジャンルに夢中になりました。それらは「七情六欲」すべてを含んでおり、何でも揃っているようなものでした。

 韓国の漫画は主に、美しい愛情や家族愛への憧れを描いています。登場人物は愛に満ちた家庭で、とても幸せで素晴らしい生活を送ることができます。このような漫画を頻繁に見ると、安逸心が生まれ、世俗的な幸せな生活への憧れが強くなります。一方、日本の熱血系アニメは、暴力や性的描写が多く含まれ、登場人物の形象は非常に異常であり、低い霊性の存在が憑依しているようなものも見られます。これらを見ていると、それらの低い霊性の生命が私の空間場に侵入してきます。

 また、中国の近現代の作家が描いた80年代の小説や時代劇には、争いや「悪をもって悪を制する」といった内容が溢れています。主人公が生まれ変わった後、過去に自分を傷つけた人々に復讐する様子が描かれており、両親や子供をも復讐の対象にしています。その中には本当に「六親不認(六親を知らず)」のような描写があり、党文化や暴力的な文学が多く含まれています。伝統的な善良さや忍耐、謙虚さなどはまったくありません。こうした動画を見ていると、その中の党文化や業力が頭にどんどん注ぎ込まれてきます。

 一時期、ホラー映画にも夢中になっていたことがありました。ある晩、寝ているときにサタンのような形象の生命が私の空間場に現れ、それを見て本当に怖くなり、それ以来ホラー映画を見るのをやめました。

 この1年間で、これらのものを見続けたことで私の身体と精神に大きな害を及ぼしました。大法の書籍を読んだり暗記したりしているとき、突然、心の中に怨恨心、嫉妬心、色情心などが反映されるようになりました。長時間携帯電話を見ていると、頭がすっきりせず、胸が詰まるような息苦しさや吐き気のような症状が出て、生命力そのものが携帯電話に吸い取られてしまったかのように感じました。携帯電話を見終わるたびに、自分はこんなことをするべきではないと非常に後悔しました。しかし、寂しさに耐えられず、携帯電話の中のものに魂を引き寄せられているような感覚で、どうしても見たくなるのです。その「偽の自分」がよく、「大丈夫だよ、三つのことは全部やったし、今日は一日頑張ったんだから、ちょっとくらい見てもいいよ」と言うのです。見ると、何時間も過ぎてしまうのです。

 その後、発正念をする時や大法の書籍を読む時も心が静まらず、夢中になっているときは発正念をすることも忘れてしまいます。そして自分を責め、「こんなことをするべきではなかった」と後になって後悔するのです。長い間、後悔と落ち込みの中で抜け出せず、気持ちがずっと重く圧迫されていました。

 最近、姉妹の同修と交流する中で、姉妹がある子供弟子の他空間での見聞について話してくれました。それは、「全ての和尚が手に携帯電話を持ち、見ている」というもので、それは大法弟子を指しているとのことでした。私たちが携帯で短い動画や他のコンテンツを見ると、その作品を制作した人が大法や師父に対して不敬な考えを持っていた場合、その業力が大法弟子の空間場に送られてくるのです。動画に含まれる業力や党文化などの悪い要素が私たちに影響します。師父は私たちのためにこれらの業力を背負ってくださるたびに、身体に痛みが現れるそうです。その話を聞いて、自分の精進不足が原因で、師父にどれだけの負担をかけてしまったのかと本当に心が痛みました。

 携帯を手放す決心

 最近、明慧ネットで同修たちが携帯を手放した体験を共有する文章を読み、大きな感銘を受けました。それを機に、私は携帯への執着を断ち切り、携帯を見ることや短い動画を楽しむことをやめる決心をしました。昨年、神韻の期間中には数カ月間携帯を見ない生活を送っていました。そのときの状態はとても良かったのですが、神韻が日本を離れた後、修煉の中で越えられない関があり、心が苦しくなり、再び携帯を手に取ってしまいました。以前の私は、「三つのこと」をやり終えたら、食事やトイレの時に少し携帯を見てもリラックスするだろう、という良くない観念を持っていました。「少し見るくらいなら大丈夫」と思っていました。しかし、この「大丈夫」という無頓着な心が、邪悪に隙を与えていたのです。

 師父が『轉法輪』の中で語られた次の言葉を思い出しました。

 「喫煙も執着です。タバコを吸うと気持ちがしゃきっとすると言う人がいますが、それは自らを欺き人を欺く言い方です。仕事をして疲れた時、あるいはものを書いて疲れた時、休憩しようと思い、タバコを吸う人がいます。タバコを一服吸うと目が覚めるような気がしますが、実際はそうではなく、ひと休みしたからです。人の考えは錯覚を生むこともあれば、幻覚を引き起こすこともあります。そのうちに本当に一つの観念が形成され、錯覚が生じ、喫煙で目が覚めるような気がします。実際はまったくありえないことで、タバコにそのような働きはありません。喫煙は人間の身体に良いことはまったくなく、長く吸った人は、医師が解剖して見れば、気管も肺も真っ黒になっています」

 私は携帯を見ることも、師父が言及されたタバコと同じだと悟りました。携帯を見ることで心身がリラックスするどころか、自分の身体が真っ黒になってしまうようなものです。

 本当に携帯を手放すことができれば、大法が生命にもたらす素晴らしさを実感できるはずだという考えを抱いた後、私は携帯を置き、それを見ない生活に切り替えました。その結果、意外にも難しさを感じることなく、軽々と携帯を手放すことができました。それは師父が私の中の欲望と執着を取り除いてくださったおかげだと感じています。

 携帯を手放してからの変化

 携帯を手放してからというもの、毎日が充実し、朝早く起きて晨煉(朝の煉功)ができるようになりました。家族の世話をする時間もでき、家の中もきれいになりました。以前は夫とよく喧嘩をし、意地を張り、争いの心が強かったのです。心の中に不平不満があるとき、夫が一歩も譲らないため、夫への恨みが深かったのです。

 しかし、今では夫とほとんど喧嘩をしなくなり、意地を張ることもなくなりました。かつて家庭内のさまざまな問題や不公平に対して感じていた不満も、ほとんど思い出さなくなりました。早く家に帰ると、部屋を片付け、食事を用意するようになりました。夫も朝起きて一緒に晨煉をするようになりました。携帯を手放したことで、自分をより客観的に見つめることができ、修煉に対してより真剣に向き合えるようになりました。大法が私を変えてくれたのです。

 携帯を手放したことで、嫉妬心や争う心、孤独感、落ち込みなど、多くの執着心や感情が大幅に減りました。それにもかかわらず、孤独を感じることはなく、意志の力も強くなり、頭はすっきりし、心も清らかになりました。同修たちの交流文章「スマートフォンを手放して心を静めよう」という言葉を思い出しました。

 携帯を手放してから、私の思考は澄み渡り、心も清らかになり、境地が高まりました。法を学ぶ中で法理をはっきりと理解できるようになり、意志の力も強化されました。ある日、私は第二式の功法を4時間も行いました。以前の私は、第二式の功法が一番苦手で、1時間でもやっとの思いで耐えていました。しかし、今回は安逸心や苦痛を恐れる心を突破し、第二式の功法の煉功中に痛みを感じることもなく、むしろ心が静かになりました。以前は30分でも心が落ち着かず、早く時間が過ぎることを願っていましたが、今回は4時間でも心が穏やかでした。これは師父が私を加持してくださったおかげです。

 この過程で、師父は法理を私に示してくださいました。例えば、人との交流において、自分の思考が多すぎて、自然体でいられないことに気づきました。ある日、「どうすれば自分らしくいられるのだろう?」と考えたとき、頭の中に「真・善・忍に同化した状態こそが本当の自分だ」という言葉が浮かびました。その瞬間、体が震え、「真・善・忍」に同化することこそが本当の自分になることだと悟りました。

 最近、師父の新しい経文『なぜ人類が存在するのか』、『なぜ衆生を救い済度するのか』、『人類はなぜ迷いの社会なのか』を読みました。師父の無量の慈悲に触れ、私の心胸の狭さに気づかされました。時折消極的で悲観的な考えが浮かぶのは、私の器が小さすぎるからだと感じました。師父の衆生への慈悲は、私の想像を超えるものでした。

 私が悟ったのは、修煉をしたいという決心を持ち、執着を断ち切る覚悟を持ったとき、師父は多くを与えてくださるということです。携帯を手放すことは、単に一つの依存や欲望を手放すことだけではありません。それ以上に、修煉への決意を生み出すことなのです。この決意は非常に貴重であり、まるで金のように輝いています。師父はそれを見て、修煉のあらゆる面で私を向上させてくださるのです。

 まだ完全に手放せていない心も多くありますが、私は確かに、常人社会の大部分の悩みや執着心が、携帯を手放したことで一緒に消えていったことを実感しています。

 結語

 これまでの修煉の道のりは、何度もつまずきながら歩んできたものでした。その中で、師父は何度も弟子を導き、前に進ませてくださいました。弟子が関を越えられず、どうしようもないほど苦しんでいるとき、師父は慈悲深く業力を取り除いてくださいました。自分がうまくできず、衆生に真相を伝えられなかったことを責め、眠れない夜には、師父が心の痛みを取り去ってくださいました。関を乗り越えられず、自分を許せないほど苦しいときには、師父が自責の感情という物質を代わりに背負ってくださいました。この20年以上の修煉の中で、師父は出来の悪い弟子のために、何度も何度も計り知れないご負担を引き受けてくださったのです。

 あるとき夢の中で、私は人間界があまりにも苦しく、早く人生を終わらせたいと思いました。空には天雷が鳴り響き、それが私を打ち付けるのを夢の中で感じ、現実と同じような痛みを体験しました。夢の中で自分の命を終わらせようとしたとき、師父が私を救ってくださいました。その夢の中で、師父は私に「満載の衆生を連れて、時が来たら一緒に家に帰ろう」と語りかけられました。

 以前、私はいくつもの願望を抱いていました。朝煉(朝の煉功)をできるようになりたい、『轉法輪』をまるで印刷版のように手書きで一冊書き写したい、もっと勇気を持って身近な中国人に真相を伝えたい、などです。これらの願いを、今まさに一つずつ実践し、衆生が救われることを心から願っています。どうか師尊のご加持を賜りますように。

 以上は私個人の体験と感悟です。もし法にそぐわない部分があれば、どうか同修たちの慈悲によりご指摘いただければ幸いです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/11/15/484983.html
 
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