平然と寂しさに直面する
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2025年3月20日】寂しさは修煉の中で乗り越える大きな関門です。以前はずっと、この関門があまりにも大きすぎると感じていました。寂しさに直面することはとても難しく、それを正視する勇気もなく、ずっと乗り越えられませんでした。しかし、警察が家のドアを叩いたとき、私はこの関門の意味をようやく理解しました。

 2011年に黒牢(訳注:迫害による収容施設)から戻ってきたとき、街道(地域の行政関係者)の人は私の家族に「○○(私のこと)は家に住まない方がいい。君も大変だし、私たちも困る」と言いました。それ以来、私はずっと家に住んでいませんでした。警察も街道も私を探すことはありませんでした。

 2024年、警察は私に何度も電話をかけてきて、写真を撮るよう要求しました。しかし、私はずっと拒否しました。年末、警察が写真を撮るために私の家のドアを叩きました(おそらく携帯電話の位置情報を利用したのでしょう)。その時、家には大法の真相資料がありました。私はドアを開けませんでしたし、邪悪な要素に協力することもしませんでした。しかし、その瞬間、私が最初に感じたのは「恐れ」でした。ただ、その恐れが何に対するものなのか、はっきりとは分かりませんでした。2日後、私は自分の心を見つめ直し、恐れの根本が「安逸心」であると気づきました。その表れとして、寂しさを紛らわすために携帯電話を見たり、テレビを見たりしていたのです。

 このことに気づいた後、私は携帯電話とテレビの電源を切りました。すると、心も徐々に落ち着いていきました。当然ですが、これらの執着も少しずつ手放していきました。再び煉功をすると、静かに修煉できるようになりました。まだ入定はできていませんが、本当に心が静まりました。正念を発する時も落ち着けるようになりました。深夜0時の発正念の時も、きちんと起きられるようになりました。さらに今年、私は「神韻」を理解することができました。過去数年は「ただ素晴らしい公演だ」と思うだけでした。しかし、今年になって、神韻は中国の歴史を演じ、神伝文化を伝え、衆生を救い、そして慈悲を示しているのだと理解しました。師父の慈悲、大法徒の慈悲が込められていることが分かったのです。

 その後、私は自分に問いかけました。「もう携帯電話やテレビを見なくても大丈夫だろうか? 将来、迫害がなくなったとしても、もう見ないだろうか?」この過程で、私はようやく理解しました。「修煉者が常人のものを見続けて何になるのか?」以前は、この言葉の意味が分かりませんでした。

 師父は「しかし、望みのない寂しさの中で黙々と修煉し、希望が見えず、これは最も難しいことです」(『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」)とおっしゃっています。

 「黙々と修煉する」——今の私が理解できるのは、「寂しさを受け入れ、それに向き合い、抵抗せず、淡々と少しずつ修煉し、少しずつ行動する」ということです。修煉の道において、寂しさは必ず乗り越えなければならない関門であり、歩むべき道なのです。だからこそ、私はそれを正視し、恐れてはなりません。ここには苦しみに耐える能力の問題も含まれています。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/2/10/490551.html
 
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