文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年3月21日】数日前、私は明慧ラジオを聞いていました。その中の交流文章で、ある同修が「一部の年配の同修が、身体の修煉はすでに終わったので動作を煉る必要はない」と言って、煉功を怠っている人がいると述べていました。その結果、一部の年配の同修は病業が現れ、旧勢力に乗じられる隙を与えて肉体を奪われ、この世を去ってしまったとのことでした(これは同修の原話ではなく、大意です)。これを聞いて、私は2020年に第二式功法を煉功していた際に見えた景象を思い出しました。また、師父が功法の修煉に関連して説かれた法理も思い出しました。
私自身に障害があるため、煉功の際、五式の功法動作はほとんど正しくできず、完璧に行うことができませんでした。そのため、時には疑念が生じたり、心の中に障害を感じたりすることもありました。ですから、以前は動功の四式功法をあまり煉功せず、主に第五式功法を中心に煉功していました(足を組むことはできませんでした)。
本家の兄(同修)がこの問題について私と交流し「五式功法をすべて煉功すべきだ」と励ましてくれました。そして「自分の最大限の努力でできる範囲までやればよい。師父の法身が見守ってくださっているのだから、大法は何でも可能にしてくれると信じるべきだ」と言ってくれました。
それを聞いて、私は実践しようとしましたが、心の中ではまだわずかに疑念が残っていました。自分の煉功動作は求められている基準に達することができないのではないかと感じていたのです。それでも、当時は五式功法をすべて煉功し続けました。
ある朝早く起きて第二式功法を煉功していたときのことです。最初の動作で両手をゆっくりと持ち上げ、頭の前で法輪抱きをした瞬間、突然、自分の両腕の間に巨大な回転する天体星系があるのが見えました。そして、自分自身が広大無辺な宇宙の中に立っているのを感じました。そのときの震撼はとても大きいものでした。それまで私は、この景象は師父が私を励ましてくださっているのだと思っていました。「このまま続ければ大丈夫だよ」と教えてくださっているのだと解釈し、それ以上の深い内包を悟ろうとはしませんでした。しかし、今回同修の文章を読んだことで、この景象を思い出し、初めてさらに深い意味があるのではないかと気づきました。
師父は法の中で次のようにおっしゃっています。「動作はこの大法の圓容圓満となる一部分であり、これは完備な一式の性命双修の修煉方法であり、大圓満法とも言う。それでこの大法は修め煉ることを必要とし、修が先で、煉は後である。心性を修めず、ただ動作を煉るだけでは功は伸びないのである。ただ心を修めるだけで大圓満法を煉らなければ、功力は阻まれて、本体も変化できない」(『大円満法』「一、功法の特徴」)
また、動作図解の部分にある法輪椿法について、師父は次のように述べられています。「動作は比較的に簡単であるが、煉るものは非常に多く、非常に全面的である」(『大円満法』「二、動作の図解」)
師父の法と自分が見た景象を結びつけて、私はさらに次のように悟りました。「大法の五式功法の動作によって修煉・演化されるのは、単に修煉者本人の各次元・各空間における本体だけではありません。それには神通や術類も含まれます。また、それぞれの大法修煉者が代表する天体、そしてその天体の中で必要とされ、成就されるすべてのものも含まれるのです。
同修の文章で一部の年配の同修が「身体の修煉はすでに終わったので動作を煉る必要はない」に触れられていますが、それでは法を正す時期の大法弟子として、修煉して円満すべきものは、単に個人の本体だけなのでしょうか? この古今未曾有(ここんみぞう:これまでなかったこと、例のないこと)の重大な歴史的使命の時期において、私たちは本当に修煉のあらゆる面で基準に達しているのでしょうか?
すでに人身を失った年配の同修の中には、おそらく本当に円満した方もいるかもしれません。その場合、師父はそのような形式を用いて、それに関わる同修たちの心性の向上や、修煉の信念をより堅固にするための試練を与えておられるのかもしれません。
しかし、もしそうではなく、心性の中に修煉の動作を軽視する惰性があり、それが原因で修煉の一部が基準に達せず、旧勢力がこれを口実にして隙に乗じられ、命を奪われたとしたら、それは私たちすべての同修が戒めるべきことではないでしょうか?
個人の現在の状態と修煉の次元における浅い認識であり、これを書いたのは、同修と共に注意を払い、互いに励まし合うためです。不足や誤りがあれば、慈悲をもってご指摘ください。