4.25 近現代中国史で最も理性的で平和な集会
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文/顧望

 【明慧日本2025年4月20日】情報筋によれば、1999年の4.25」(425平和陳情)は、中国近現代史上、最も理性的かつ平和な、そして最大規模の陳情であったとされている。なぜそのような評価がなされているのだろうか。

 まず、中国共産党が「陳情」や「デモ」をいかに利用し、危機的状況を反転させて中南海や天安門を奪取したかを検証したい。

 1945年の第二次世界大戦の後、国民党政府は共産党との協議による共同統治の準備を整えていた。もし、全てが予定通りに進展していれば、自由民主的な中国が誕生する可能性もあったであろう。しかし、共産党は先んじて内戦を引き起こし、国民党統治区で学生による「陳情」や「デモ」を展開。国民党政府を前後から攻撃し、対応に追われるといった混乱を作り出した。

 上海交通大学の公式ウェブサイトには、「1947年5月13日、中国共産党交通大学支部の指導下、交通大学の約3000人の学生が幾重もの妨害を突破し、自ら列車を運転して南京へ向かい、国民党政府に請願・抗議した」との記述がある。共産党は交通大学の学生を動員し、政府の支出削減による学校合併を名目に、学生自らが機関車と車両を集め、撤去された線路を敷き直して南京へ向かったのである。いかなる正常国家でも、このような重要な戦略的資源の扱いを許容することはあり得ないだろう。

 1947年5月22日、共産党地下党は「反飢餓、反内戦、反弾圧」を掲げる大学生デモを起こした。「請願隊は湖北省政府に突入し、湖北省財政庁を除く全ての庁局の事務室を占拠、一部を破壊し、蒋介石の肖像画を損壊。財政庁と教育庁の看板を『搾取民庁』『愚民庁』に塗り替え、壁面に漫画やスローガンを貼り付けた」とされている。

 共産党の煽動による学生運動は警備兵の怒りを買い、軍警による発砲で3人が死亡、10人以上が負傷した。「この惨事は共産党武漢地下党が国民党政府に対する世論攻勢の強力な武器となった」とされ、短期間のうちに『「六一」虐殺惨事の真相』が印刷・全国配布された。アメリカのサンフランシスコ放送局もこの「惨事の真相」を世界に向けて発信。全国の大学から追悼と支援の声が相次ぎ、国民党政府は極めて受動的な立場に追い込まれた。

 1948年7月5日、共産党地下党は北平市で反飢餓、反内戦、反弾圧のデモを組織。6000人を超える学生デモ隊が西長安街の北平市参議会前に集結した。学生らは「制止を振り切って門に殺到し、外の軍警を散らして猛然と門内に突進。一部は塀を越え、囲壁に穴を開け、命知らずで穴を登り、壁のレンガを武器として取り外し、レンガと棒が飛び交うなか、叫喚が響き渡った」とされる。

 「緑色の大門は突破され、学生の一部が中庭に侵入。中庭の憲兵は威嚇発砲し、憲兵と警察は木の棒や銃の台尺を使って学生らを門外に追い出した」という。

 最終的に青年軍の兵士が発砲し、約10人が死亡する事態となった。

 共産党はこの「七・五」事件を利用し、再び東北22校、天津・唐山など「華北13校の学生」を動員して国民党政府を非難。燕京大学と清華大学は清華園内で「『七・七』記念『七・五』惨事支援告発大会」を開催した。

 7月9日には、東北各大学の16単位と北平9校から1万5千人の学生が北京大学民主広場に集結し、「東北華北各校反弾圧反虐殺勉学権利大請願」集会を開催。7月末までに東北・華北地域のストライキと請願に拡大し、政府に妥協を強いた。この事件後、国民党政府は強烈な世論の非難にさらされた。

 以上の経緯から、共産党は学生運動、憲法違反、警備兵への挑発、流血事件の作出、世論攻勢といった「手法」を熟知していたことは明白である。

 共産党はあらゆる道徳や文化的規範を無視し、隙あらば違法行為も辞さなかった。数回の学生による政府攻撃デモでの衝突による死傷者は合計100人未満であったが、1989年の「六四」天安門事件では、共産党は戦車を投入して非武装の学生を殺害。北京赤十字会の当時の統計では約2600人が死亡、負傷者は3万人に達した。後に英米の機密解除資料では1万人以上が殺害されたとされ、平和的請願に対する虐殺としては世界最悪の記録となった。

 こうした事実から、共産党が中南海と天安門を奪取する以前は、若い学生たちが繰り返し利用され犠牲にされた集団であり、陳情やデモ抗議が、共産党による暴動煽動、注意逸らし、政権奪取の道具であったことは明らかである。このような背景から、1999年の法輪功学習者による平和的陳情が、「1989年六四天安門事件」の最大受益者である江沢民によって、権力強化と地位確立のための生贄にされたと考えられる。根本的には、真・善・忍の理念が江沢民には受け入れられず、共産党の理念と相容れなかったこと、また法輪功創始者の高い人気に江沢民が嫉妬したことが、4月25日に江沢民が憎悪の眼差しと険悪な表情を見せた深層の理由であると言えよう。

 法輪功学習者にとって、1999年の「4.25」陳情は、「六四惨事」の記憶がまだ鮮明な中国社会の文脈で発生した。「六四」からわずか10年、共産党にとって安定維持が最優先事項であった。

 「4.25」に先立ち、法輪功学習者は善意の忠告を受けていた。「今回は中央政府が厳しく対応する、絶対に行くべきではない」というものだった。しかし善良な法輪功学習者たちは一致して考えた。気功修練によって心身の道徳が向上することは良いことではないか。政治的要求も利益的要求もなく、ただ各地での正常な練功環境と真・善・忍を信じる権利を求めているだけで、行かない理由はないはずだと。

 中南海周辺に住む北京の学習者の証言によれば、親族からの情報で「4.25」前に中南海周辺の各大病院が負傷者受け入れ準備を整えていたという。明らかに共産党の黒幕(江沢民、羅干、劉京、周永康)は「六四」型の弾圧行動を計画していたのである。

 1万人の学習者が中南海で陳情する中、実弾装備の軍警が周辺に潜伏していた。もし共産党が「工作員混入」の策略を用い、トラブルを煽り軍人への攻撃を誘発していれば、武力弾圧の口実が生まれていたであろう。

 しかし、殴られても反撃せず、罵られても反論しない法輪功学習者たちは、常に他者を優先し、路傍に立って通行を妨げることなく、静かに陳情結果を待った。「私利私欲なく、まず他者を、後に自分を考える」という高尚な境地の前に、共産党はいかなる隙も見出せなかった。これこそが情報筋が1999年の「4.25」を中国近現代史上唯一の最も理性的かつ平和な、最大規模(公式報道で1万人、実際には3万人超と推定)の陳情と称し、「慈悲と善良さを刻んだ歴史的記念碑」と評する所以である。

 中国には「4.25」平和陳情という歴史的一幕があった。法輪功学習者の素朴かつ誠実な願いは、世界最悪の暴虐政権に、引き金を引くことを躊躇させた。中国の識者を安堵させ、国際社会に感銘を与えたこの特別な日、「4.25」を記憶にとどめるべきである。

 1989年の六四天安門事件における学生犠牲者の多さを認めるならば、いつか真実が明らかになる日、「4.25」事件に対する中傷が法輪功学習者に与えた迫害の実態と死亡者数に、驚愕と悲痛を覚えずにはいられないだろう。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/4/9/492357.html
 
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