交通事故を通じた修煉体験
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文/アメリカの大法弟子

 【明慧日本2025年5月13日】私は2月に交通事故に巻き込まれました。その日、交差点で青信号に従って直進していたところ、向かい側から来た車が突然左折して、私は急ブレーキを踏みましたが、結局衝突してしまいました。衝撃は大きく、両車ともに大きなダメージを受けましたが、幸いにも怪我人は出ませんでした。事故を無事に乗り越えられたのは、師父の慈悲深いご加護のおかげです。もしそうでなければ、想像もできないほどの事態になっていたかもしれません。事故の際、私の車のエアバッグも作動しました。

 事故は完全に相手方の責任ですが、修煉者として、自分の長年の問題が事故を通じて表れたと分かっています。一連の過程は師父が按排してくださった向上の機会だと分かりました。ここに、修煉の体験を皆さんと共有し、それが同修たちの戒めになることを願っています。

 1、 党文化の除去

 今回の交通事故は、修煉の観点から見れば、旧勢力によって仕組まれた命を奪うような大きな関だったかもしれません。命の借りを返すほどの関なので、今回の事故は避けられないものだったかもしれません。しかし、修煉において私は反省する必要があり、このような事を無駄に起こさせてはいけません。大法弟子が前世の業力によって命をもって返さなければならない借りは、必ずしもこのような危ない形で返す必要はなく、師父が按排してくださった返し方は、往々にして人との付き合いやトラブルの中で心性を高め、自然と業力を消していくもので、本当に命を落とすことで返すのではありません。

 反省すると、私自身も運転中にルールを守らない行動が多いことに気づきました。これは、根深く残る党文化の影響が原因です。自分は大法弟子であるため、自分の時間ややりたいことが最も重要だと考え、常人社会のルールを無視し、交通規則を守らないことがしばしばあります。私はほとんどの場合に黄信号を無視し、じゅうぶん距離があると思う時に、私も今回の対向車の運転手と同じように無理に左折し(幸い、自分のせいで事故は起きていない)、停止標識がある場所でじゅうぶんに停止しない、赤信号の時に携帯を見る、交差点で周囲をよく確認しないなどです。今回、もし私がその交差点を通過する際に対向車の動向をしっかりと確認していたら、事故を避けられたかもしれません。

 アメリカで免許を取って車を運転し始めた際、アメリカ人の良好なマナーに驚きました。運転手がよく道を互いに譲るだけでなく、歩行者が停止標識の前で手を振って私に先を譲ってくれることもよくありました。これは中国での経験とは大きく異なり、深い感銘を受けました。このようなマナーは実は、他人を思い遣る心です。しかし、私はこのようなマナーを学ぶどころか、当たり前のように享受するだけで、自分はマナーを身に付けていません。だんだんと、道を譲られることが少なくなったことに気づいて、「世の中は変わったな」と嘆きましたが、自分自身に問題があるので外部環境も変わったとは考えもしませんでした。

 修煉者として、運転において内に向けて探したことがなくて、道路上で心性の問題が存在していないかのように、反省と改善の必要性を感じていませんでした。しかし、振り返ってみると、私は道路上で善良ではありませんでした。かつて上述のマナーが悪い行為をした際には、安全距離を確保するようにしていましたが、相手を驚かせたり心理的なプレッシャーを与えたりしたのは事実です。修煉者はどんな状況下でも他人を思い遣るべきで、道路上でも同じです。運転中にも善良な人間として振る舞わなければならないことを、なぜ前から意識していなかったでしょうか。

 2大志を懐きながら細かいことに配慮し、正しい道を歩む

 実際、近年、師父は私に交通規則を守ることの重要性を何度も啓示してくださいました。妻(同修)もよくそばで「落ち着いて、急がないで」と言ってくれましたが、私は「時間がない」ことを理由に自分のやり方を変えませんでした。私は社会の規則をあまり重んじず、心の中では、「大法の仕事は一番大切なことなので、時間を節約するためなら小さな違反も許される」と考えていました。

 2年前、私は2回黄信号で急いで進んで、結果として道を渡り切れずに信号違反になりました。1回目は罰金を払い、ネットで違反講習を受けました。講習も真面目に聞かず、ちょっとした賢さで試験に満点で合格しました。その態度では、教訓を真剣に学ぶことはありませんでした。数カ月後、同じ過ちを2回目犯しました。罰金を払うため警察署に行ったところ、違反記録はシステム上でどうしても見つからず、警察は結局、違反はなかったことにしました。12カ月以内に4点減点されると、免許が6カ月間停止されることを後になって知りました。これで、違反記録がシステム上見つからないことは、師父からのご加護のおかげだと初めて分かりました。そうでなければ、免許停止で車を運転できず、生活、出勤、大法の仕事に大きな影響が出ていたでしょう。師父に迷惑をかけて、罰金の取消しまでして頂くことに、とても恥ずかしくなりました。しかしその後、黄信号には注意するようになりましたが、運転の習慣を根本から変えることはしませんでした。理由はいつも、時間がないため、道で時間を節約しなければならないというものでした。

 実は、師父は以前から「大志を懐きながら細かいことに配慮し」(『精進要旨』「聖者」)と教えてくださいましたが、その点において私は自分を改善していなかったので、とうとう大きな問題を引き起こしました。実は、大法弟子がやっていることは宇宙で最も重要なことだとしても、社会のルールを無視するわけにはいきません。

 この出来事の後、私は師父の肖像画の前で、「師父、私の過ちをお許しください。これからは必ず改めます。どこにいても、大法弟子の称号に恥をかかせないようにし、道での行動も同様です」と師父に約束しました。驚くべきことに、運転中にルールを守るよう心がけてから、多くの人が私に道を譲ってくれるようになりました。まさに「相は心から生じる」(『各地での説法十』「大紀元会議での説法」)のいうとおりですね。

 3、金銭に対する執着心

 様々な執着心の中で、私は特に嫉妬心、恨む心、色欲心など修煉者にとって大きい執着心を除去するように常に心がけていますが、自分には利益に執着する心がないとずっと思っていました。なぜなら、プロジェクトや真相を伝えるために努力する際、コストや代償を考えずに行動してきたからです。一方、日常生活で私は賢く計算高い行動を取っています。例えば、買い物をする時、最高額のキャッシュバックを得るために、どのクレジットカードを使ってどの商品を購入するかを計算します。店のクーポン券を利用して、親のために高齢者向けの福祉商品を受け取ったりします。しかし、これらの行動を利益に対する執着心だとは思ったことがなく、なぜなら、常人社会の財を自分の手に入れることができれば、それは大法の財になり、これは素晴らしいことだと思っていたからです。実際には、その中に利益心が隠されており、常人社会との対立心理もあると思います。

 事故が起きた時、相手の車両保険の情報が警察の報告書に記載され、報告書は2日後に作成して私に送られると警察から聞いたので、私は相手の運転手に保険の情報を聞いていません。しかし、日が経っても、警察の報告書が一向に届かず、少し心配し始めました。保険情報がなければ事故車を処理することができず、車は警察の駐車場で毎日高額な保管料が発生していました。また、相手が保険に加入していない場合、私にはどんな弁償ももらえないのではないかと心配しました。通常、相手が保険に加入していない場合、こちらから告訴なんてしたくありません。

 ある日、その事をまた考えてしまう時、『轉法輪』の中の言葉が突然頭に浮かびました。「皆さんもご存じのように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています。本当にそれができれば、あなたはもう羅漢の初級果位に達していることになります」

 これは大法が私に対する要求だとすぐに悟りました。以前はそれに達していませんでしたが、今回こそその基準に達しようと思いました。「あの心配とつらい気持ちは実の私自身ではなく、後天的に形成された観念や執着、利益を求める心から来ており、金銭の損を恐れるためにつらく感じているので、そのつらさがほしくなく捨てたい」と考えました。それをはっきりと認識し捨てようと決めた瞬間、あのつらい気持ちは突如に消え去りました、本当に不思議です。本気でそれを除去したい時、その執着心はこんなにも速く取り除かれるのです。

 4、せっかちな性格を改める

 今回の出来事を通じて、私は自分のせっかちな性格が意識できました。実は、せっかちな性格はずっと存在していますが、普段は知識人としての表面的な教養で隠されています。例えば、買い物でレジに並んでいる時、いつも最も速く進む列を探し何回も列を変えたりしますが、入った列がかえって遅くなることはよくありました。運転中も常に速い車線に入りたくて、何回も車線変更をしたりします。

 今回、警察からの報告書がずっと届いていないため、私はつい焦って、「いつ届きますか」と問い合わせる際の態度も時にはイライラしています。20日目になると、電話口の人すら私と同じように不思議に思いました。その日、本当に焦りました。知り合いのご主人は定年退職した高級警官であることを思い出しで、警察に問い合わせることを頼んでみようかと考えました。その時、『轉法輪』の言葉が心に響きました。「『利口になる』というのはほかでもなく個人の利益を得ようとするためです。 『誰かにいじめられたら、その先生や親に訴えなさい』とか、『落ちているお金を見つけたら、拾いなさい』とか教えるのです。小さい時からこのような教育を受けてきた子供は、常人社会で利己心が次第に大きくなり、得をすることばかり覚えてしまい、それによって徳を失うことになるでしょう」。師父は私にそうすることを望まれない、と私はすぐに分かりました。

 ちょうど発正念の時間になり、「私は法を正す時期の大法弟子で、なぜこんな瑣末なことに焦るのか、この焦って不安だったのは本当の私ではなく、後天に形成された観念だ。それを認めず捨てよう」と考えました。心を落ち着かせて、発正念の最初の5分間でその「偽の私」を取り除きました。すると、焦りや不快な感覚が全部消えました。

 発正念の時間が終わると同時に、警察から電話があり、報告書が出来たのですぐに送るとの知らせでした。報告書が遅れたのは、私の修煉がまだ完了していなかったからです。待っていた20日間に、私は深く根付いた観念と執着を見つけ出しました。これは、まさに心をえぐるほど修煉の過程でした。

 報告書には、事故の全責任が相手の運転手にあると示しています。相手方の保険会社に報告書を送り、彼らは「自分の責任を軽くするために、その運転手が言ったことは一部事実と違います。でも我々は警察の報告書を基に鑑定します」と私に教えました。保険会社の話は私の修煉に対して、一つの注意喚起になると思います。私自身も本当に「真」に基づいて行動しているか、警察と話す時、自分に有利になるように述べていないか、責任を逃れるために一部の事実を避けていないか、これらの点においても反省しました。

 実は人間世界のどんな事に対しても、人心を使って心配したり争ったり悩んだりする必要はなく、自然の流れに任せ、問題に遭ったら法理に照らし合わせて自己を修正し、そして発正念をして旧勢力の妨害を否定すればいいので、最終的に師父が最良の按排をしてくださることを、長年修煉した学習者なら早くから分かっているはずです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/4/23/492388.html
 
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