求める心は修煉において大きな障碍
■ 印刷版
 

文/司徒平

 【明慧日本2012330日】求める心は広い意味で欲望です。また、常人の中には「欲無ければ即ち剛なり」という言い方もあり、修煉者はこの類の執着を修めるべきです。求める心の現れは千差万別ですが、非常に明確なものもあれば、とても不明瞭なものもあります。この心は修煉において、巨大な障碍であるため、それを見つけ出して、修めることは私たちにとって、とても重要なことです。

 何かを得ようとする執着、あるいはあることが自分の思い通りに展開することに執着するのも、すべて求める心です。あなたの願望はすばらしいかも知れませんが、執着してはいけません。師父は「求めずに自から得る」(『シドニー法会での説法』)と説かれました。求める心と欲望は、本質的に私(し)のため、我(われ)のためであり、人のことを先にして、自分のことを後にする大法の原則に背いています。たとえあなたが円満することに執着しても、それも私(し)のため、我(われ)のための心です。私は『洪吟』「有為」から、円満成就して神佛になることに執着する、あるいは神佛の恩恵に執着することも有為であり、求めることであり、修煉者が必ず乗り越えるべき、大きな関であると悟りました。ですから、大法弟子は三つのことを行う際、心は水のように澄みきっていて、常に内に向けて探し、もしほんの少しの求める心、有為の心など、良くない心があれば、なるベく早くそれを修めるべきです。なぜなら、修煉するには、少しの嘘、偽りもまぜてはいけないからです。この点を成し遂げるには、絶えず真面目に学法し、道を悟り、心性を向上させなければいけません。師父の「煉功する心があればとて、功を得る心なし」(『転法輪』第二講求めるということの問題)の教戒を銘記すべきす。

 同修らが、修煉の最後の段階において勇猛邁進できることを願っています。

 以上は個人の悟りであり、正しくないところは、ご叱正をお願いいたします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/3/26/254671.html)     更新日:2012年4月1日
 
関連文章