文/江蘇法輪功修煉者 去執(仮名)
【明慧日本2012年5月13日】修煉を始めて十数年が経ちましたが、徹底的に内に向けて探すことができるようになったのは最近のことです。
昨日は同修と一緒に学法する日でした。その前に、プリンターから突然、インクカートリッジを入れ替えるよう通知がありました。プリンターのカバーを開けると、インクを輸送するパイプの中に空気が入ったことを発見し、何をしても解決できませんでした。しかし、私はあまり考えずに学法へ行きました。学法から戻り、また学法をしながら、資料を作ろうと思いましたが、依然としてプリンターは回復せず、パソコンにまで問題が出ました。パソコンがシステムダウンをしたり、画面が表示されなかったりで、再起動をしても問題は解決されませんでした。仕方なく、私は最後にパソコンの電源を切りました。このような状況が現れたのは、必ず自分自身に何か正しく行えていないことがあるからだと分かりました。自省すると、最近きちんと学法と煉功をしていなかったこと、発正念も時間通りにしておらず、曖昧に対処していたことを認識しました。そのため、私は落ち着いて静かに本を読もうと思いました。午後は同修と一緒に学法しましたが、『明慧週刊』を読むことにしました。少しだけを読むと、私は朝から晩まで、ずっと忙しかったと思って、ベッドに横になって『明慧週刊』を読むことにしました。これはもちろん正しくないと分かっていましたが、正念が強くなく、直しませんでした。そして私は朝2時まで寝ました。起きてから、まだ煉功するには早すぎると思い、私はもう少し寝ました。結局目が覚めたら、もう5時50分の発正念の時間になっていました。
パソコンの電源を入れると、問題はますます酷くなっていました。プリンターの問題もそのままでした。状況の重大性を認識しました。パソコンやプリンターは、真相資料を作ることに協力しており、私の重要な法器であるだけでなく、私の心性を高めることも役に立ちます。
私は自分自身の問題を真剣に探しました。
まず学法グループのある同修と隔たりがありました。以前もこのような問題を認識して、正念で取り除いたこともあり、同修と交流したこともありました。昨日、学法するとき、このような間隔がまた現れたことを感じました。昨夜も家族の同修と交流しましたが、しかしその時は同修の不足を指摘し、自分を反省しませんでした。いつも同修は自分に対して疑っている気がしたので、その同修を見くびっていて、誰も私には敵わないという気がしました。何をしても、自分の考えとやり方を同修に強要しました。この方面の問題について、私はネット上で別の同修の交流文書を読み、自分は良くできていると思いましたが、実際にはなかなかできていませんでした。そして、さらに深く隠されている執着心を発見しました。自分が同修を疑うこともありますし、同修を見くびることもあります。間隔は私自らが作ったのではないでしょうか? 真剣に考えると、恥ずかしいです。それは師父の期待を背き、同修にも申し訳ないことです。
そして、娘との問題を探しました。娘も同修であり、修煉期間は短いですが、よく悟れています。昨日、彼女に同修との間隔について相談しました。話をしているうちに、彼女は怒りだして、私に母親としての責任感がないことを責めました。私はとてもつらく感じました。もう親として十分に尽くしていると思っていたのに、どうしてそれほど私に不満があるのですか? 私は彼女に対する怨みが生まれました。この前、私は娘に対して、あなたは私の心性を高める”魔”であると言いました。これも彼女に不満をさせました。ここから、私は娘に対する情が深いことを悟りました。私は娘に仕事がないことや、夫にいじめられることを心配し、また娘が怠惰なのを恨み、何でも気に入りませんでした。またある時は、料理の支度が面倒くさく、大法の仕事をする時間的余裕も欲しかったため、娘に一人暮らしをして欲しいと思ったこともありました。これは全て私の勝手な考えです。たとえ娘が同修でなくとも、私は親として基本的な善もありませんでした。本当は、苦労を回避したかったのですが、大法を名目に自分の安逸心を隠しました。また、婿の面前で娘と喧嘩するなど、闘争心はもちろん、人から言われたくない心もありました。
(続く)