厳しい批判に直面する時、心を正しく持つべき(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年12月17日】去年の秋のある日、法を勉強した後、同修Aさんは私を厳しく批判しました。彼女の言い方も態度もとても厳しく、批判の内容は更にとげとげしいものでした。急な出来事で、私にはとても耐え難く、どうすればいいか分かりませんでした。彼女の険しい態度の前で、私が小さい声で説明すると、彼女は更に厳しく「自分に弁解しないで! 人の意見をぜんぜん聞き入られないわね!」と指摘して、確かにこの時慌てて自分のために説明すべきではないと思い、自分を静めて同修の意見を聞くことにしました。

 しかし、しばらくすると、彼女はまた怒って、「なぜ話さないの? こうすることで自分の性格がいいと見せつけるのですか? はっきりで言うけど、皆あなたがいいと褒めるが、実際のあなたはそれほどいいとは言えません。沈黙すれば自分の執着を隠せるとは思わないでください」と怒鳴ってきました。私は本当に始めて、このような場面に遭遇したので、本当の心境を言うと、彼女の態度を受け入れられないだけではなく、まずいのは、彼女の多くの指摘が事実ではなく、彼女の主観的な推測と独断的な推測に過ぎないと思ってしまいました。私はずっと自分の心性を守って、彼女と喧嘩をしないようにと言い聞かせましたが、心の中は不平でいっぱいで、形容しようもなく、本当に辛かったです。連続して数日間、私の気持ちは重かったです。

 修煉の中で偶然なことはなく、私はこの問題に真剣に対処しなければならないと分かっていました。たくさんの同修は私の性格がいいと褒めてくれるが、トラブルを前に私はなぜこんなに耐え難いのか、辛い中で自分もおかしいと思いました。自分はなぜこのようなのでしょうか? 同修の態度ですか? 同修の批判が事実ではないと思うからですか? 自分が深く隠した執着にぶつかって、それを直視したくないからですか? 同修にもたくさんの不足があるのだから、私にこうすべきではないと思うからですか? 自分の心が狭く度量が小さいからですか? しかし、自分は修煉者であり、大法弟子なので、事にぶつかる時、内に向けて探すべきだと師父は教えてくださいましたが、自分はなぜこんなにだめでしょうか?

 自分にどんな良くない心があるかを探し出し、そして取り除き、高めなければならないと思いました。そして、嫉妬心、恐れる心を長期に取り除かず、慈悲で穏やかな心状態を保たず、心の容量が足りず、ほめ言葉を聞きたく、批判する言葉を聞きたくなく、ひとりよがりで、自分の意見を固守し、肉親の情が重く、親戚同修の不足を認めようとせず、苦を嘗めるのを恐れ、安逸を求めるなど、たくさん見つかりました。私はこれらの表れを恥ずかしく感じました。

 しかし、たくさんの不足が見つかっても、私の心はまだ完全に静めていませんでした。その日の「激しい場面」を思い出せば、やはり心が動じてしまい、「傷つけられた」と感じます。自分がすっきりできなかったのは、たくさんの困難を乗り越えてきて、たくさんの魔難と困難を経験して、一人一人の弟子の修煉の道のりは皆貴重なものなのに、Aさんはなぜこんなに「強く」「理不尽」で、他人に結論を下すのか? 修煉の中の人だから、必ず常人の心があるはずで、同修を助け向上させるには、真心で同修のためにやるべきで、無責任に話すべきではないと思いました!

 自分に問題があるはずと知りながら、また師父は私たちに無条件に内に向かって探すと要求されたのですが、私は同修を探してしまいました。自分の不足をたくさん見つけ出しましたが、相変わらず心を放下できず、法理を分かっているようですが、行いとして表れてきたのはやはり真に分かっておらず、自分が「傷つけられた」事に執着していました。私は涙を流しました。自分が「傷つけられた」ためではなく、自分がこの「傷つけられた」感じに執着することを恥ずかしく思ったからです。私は心の中で師父に「師父、私は必ずこの関をよく乗り越えるよう、必ず法の中で向上していきます」と言いました。

 慈悲なる師父は、この頑固な弟子にまだ自分を正す願望があるのを見て、私に悟り高める機会を与えてくださいました。

 数日後、私は外で真相電話をかけていたところ、突然頭の中に『轉法輪』の中の良く知っている言葉、「佛家では、人を済度するにあたって、条件を言わず、代償を求めず、無条件に助けるということなので、われわれも学習者の皆さんに多くのことをしてあげることができるのです」が浮かんできました。私の心が一瞬に震動し、そうですね、私たちは皆師父に救い済度された十悪の毒世の生命だったですが、師父に無条件に済度されて、また私たちの向上のためにたくさんの事をやってくださいました。弟子として自分を無条件に師父に預けて、心を大法の中で溶けて行くべきで、師父のおっしゃるとおりに、大法の要求に従って行い、師父は私たちの、この真に修し、確実に修煉し、大法への固い変わらない心が欲しいだけではないでしょうか? 本当にできるなら、まだ個人の放下できない苦痛や不平があるのでしょうか? まだ自分の執着だと知りながら同修を怨むのでしょうか?

 私は突然、この数日自分が苦しんでいた根本、心が正しく置かれていないことに気づきました

 「心が正しくないとはどういうことでしょうか? それはいつも煉功者としての自覚が欠けていることです」[1]と師父は私たちに教えてくださいました。煉功者の心が法の中にあり、如何なる魔難を前にしても固く師父を信じ法を信じることができます。私はできたのでしょうか? 自分の不足も探していますが、本当の煉功者のように自分を直視し、修めていませんでした! この数日のため息、文句、がっかり、悩み、不平、苦しみ、すべて心が正しくないことを表しているのではありませんか? 「心を正しくもつべし」[1]の言葉にどんなに深い法理を含んでいるのでしょう?

 私が自分の誤りを認識できたとき、自分を包んでいた大きく重たい物質が消えてゆき、心身ともリラックスし、頭もすっきりしたと感じました。夜に法を勉強する時、自分に存在している各種の執着を冷静に見て、師父が教えてくださった「修煉する人 自らの過ちを探し 各種の人心取り去ること多し 大なる関小なる関、落さんと想ふべからず 正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」[2]を心得ました。静かな夜に、自分の思いを大法に照らしてみると、長期に重視していなっかた問題を見つかりました。

 (続く)

 

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/21/300543.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/12/3/147141.html)
 
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