【明慧日本2015年5月22日】吉林省図們(ともん)市の法輪功学習者・遅耀才さんは、610弁公室の警官により不当に連行され、何度も拷問を加えられたため、肝臓、胆のう、腎臓、心臓、膵臓などが極度に衰弱し、2月11日、遅さんは無念な思いを張らせないまま死亡した。享年55歳。
遅さんは延辺朝鮮族自治州図們市の石峴製紙工場の職員である。遅さんは豪放な性格で品があり、同僚たちに「兄さん」と尊称された。しかし、遅さんは法輪功を学んでいるとの理由で迫害を加えられた。
2011年9月2日午前、図們市610弁公室の指示を受けた市公安局・国保大隊(法輪功迫害の実行機関)の警官らは数台のパトカーに乗って、遅さんの家に行った。警官らは遅さんの家に入ろうとしたが、遅さんがドアを開けなかったため、入れなかった。そのため、警官らは消防車を呼び、消防車の梯子を使って、遅さんの家の窓を壊して入った。
警官らは遅さんを連行し、倉庫にあった壊れた衛星受信アンテナ(海外の新唐人テレビ局の番組を見ることができる)を押収した。
同日10時頃、遅さんは新華辺防派出所に送られた。遅さんはこの派出所の1階にある尋問専用の秘密部屋に連れて行かれた。そして、警官7人が遅さんに「誰と一緒に衛星受信アンテナを取り付けたのか」などと尋問し、自白強要のために拷問を加えた。遅さんは鉄の椅子に座らされて靴と靴下を脱がされ、警棒で足を殴られた。そのため、遅さんは両足が腫れ上がりあざだらけになったが、何も答えなかった。その後、遅さんは3日間歩けなかった。
拷問のイメージ図:ビニール袋で窒息させられる |
しかし、警官はビニール袋を5回、遅さんの頭に被せた。顔が青紫色になって窒息しそうになった遅さんはやっと息ができたとき、ペットボトルで頭、胸などを警官に酷く打たれたが、それでも遅さんは何も回答しなかったという。
当日の夜、酔っ払った国保大隊の副大隊長が遅さんのところへ行き「誰が俺の写真をネットに暴露したのか言え」と脅迫したが、遅さんは何も言わなかった。そのため、副大隊長は怒り出し、遅さんの顔を殴りながら罵り、怒鳴った。もう1人の警官も警棒で遅さんの腕を殴った。
国保大隊の警官は遅さんを24時間拷問して尋問を行ったが、遅さんは何も言わなかったため、再び鉄の椅子に座らせ、遅さんを力いっぱい蹴ったり殴ったりした。そのため、遅さんは吐血し、肝臓、胆のう、腎臓、心、膵臓などを負傷してしまった。
9月3日の夜、警官は遅さんに激しい暴力を振るった。2日間の拷問で遅さんは意識を失ったこともあり、尿失禁の症状も現われた。その後、遅さんは図們市留置場に送られた。
遅さんの家族は、610弁公室の警官に遅さんの連行の理由を聞いたが「秘密だ」と言いながらも、新唐人テレビを見られる衛星受信アンテナとの関係があると漏らした。
同年9月14、15日、遅さんは断食をして迫害に抗議した。その後、遅さんは労働教養2年を宣告され、9月20日に長春市朝陽溝労働教養所に送られる予定だった。しかし、入所の健康診断で、遅さんは血圧が195まであがって入所できないはずだったが、警官は血圧を下げる薬を水に溶かして遅さんに服用させた。
そして、遅さんは無理やり労働教養所に拘禁された。教養所で遅さんは他の法輪功学習者と共に囚人服の着用を拒否し、迫害に抗議をしたが、迫害された。
遅さんは20数回もビンタをはられて顔が腫れ上がり、高血圧の症状が現われた。
家族は教養所へ行き「重病のための服役中の一時出所」を求めたが「条件を満たさない」と断られた。
2012年3月22日午前、遅さんの娘は教養所第三大隊・大隊長からの電話を受けた。「遅は血圧が220に達し、注射をしても薬を飲んでも下がらない。もうあと2週間だ。『一時出所』の手続きをして来い」と言われた。
翌日、家族は教養所の第三大隊の大隊長に会ったが、大隊長は「とりあえず、遅を教養所関係の病院に入院させて治療する。その後、地元のコミュニティ、派出所、家族の書面保証があれば、『一時出所』の手続きをしてやるが、その『一時出所』の同意を得られるか保証できない」と言われた。また、警官は家族に「遅が使った治療代、薬代を支払え。これから遅が法輪功を学ばないとの保証書に署名しろ」と要求したが、家族は「これらの全ては教養所のせいです。治療代と薬代は払いません。署名もしません。遅を無条件で無罪解放してください」と求めた。
遅さんは2012年4月27日に帰宅した。しかし、酷い拷問を受けた遅さんは肝臓、胆のう、腎臓、心臓、膵臓などが極度に衰弱し、帰宅した後、全身の皮膚、白目が黄色くなった。以前は、ご飯を大盛でおかわりした遅さんは、小さいお椀のご飯も食べられなかったという。
その後、病気に苦しんだ遅さんは、今年2月に死亡したという。