文/同心小舟
【明慧日本2016年6月3日】修煉してから、私にある状態が現れました。それは他の同修がこう悟ったとか、何かの夢を見たとか聞くと、それはとても素晴らしいと感じることでした。潜在意識のなかに、私はそういう感覚を待ち望んでいました。修煉に対して理解が深まるにつれ、ますます理性的に認識できるようになり、感覚に対する追求は淡々としたものになりました。
一昨日、その人心を掴みとり、深層を掘り出したとき、もうひとつのことに心を打たれました。当時、自分自身でもびっくりしました。それは、私の潜在意識の中に、師父は私からとても遠いところにおられる。私はひとりで孤独に修煉していて、師父の存在が感じられないという一念でした。
師父から遠く離れている感覚とは何でしょうか? それは自分に超常的な体験がなかったということでしょうか? それとも自分が想像した、あるべき様子のことでしょうか? そのいずれもあり、自分の追求していた超常的な体験を得られず、同時に修煉するには常に師父からの悟らせを得るべきだと思いながら、自分の場合はこのようなケースがとても少なかったと思うことでした。しかし、いままで修煉して、一歩一歩歩んできたなかで、私が法の中から悟った理、私の生命に対する改変と震撼は私に大法はいたるところに存在すると感じさせました。私は自分が大法の中にいながら、師父からとても遠いと感じましたが、これはどうしてでしょうか? 私は本当に師父の悟らせを得てやっとはっきりわかるのでしょうか? 私自身もそうではないと思いながら、どうして師父の悟らせを求めるのでしょうか? 私が求めた悟らせは、ただ自分が師父に注目されていることを感じ取りたいということだけでした。
師父は「人間の感覚はまったく頼りにならないものなので、感覚に頼って修煉するわけにはいきません」[1]と説かれました。感覚はいかなる虚像も作り出すことができます。感覚にたより、自分が注目されていると感じ、注目されている暖かさを享受すれば、更にそれに頼ります。ですから、いわゆる正しい信念も表面から読み取れるものではありません。ひいては当事者本人も気をつけなければはっきり見ることができないかもしれません。他の空間の生命が人を制御することは非常に容易いことで、人間は人形のように操られていても、人間の表面はそれでも自分が自分を制御していると感じます。ですから、大法修煉は法理にしたがい、いかなる感覚も求めず、法にもとづいて修めなければなりません。この道理がはっきりわかってきたら、そのような人間の感覚は解体されてなくなり、夜煉功するときに入静できるようになります。
はっきり言いますと、私には一つの観念、常に師父から悟らせをいただく、あるいは超常的な体験を持っているからこそ、師父に面倒を見てもらっている。さもなければ自分はひとりで修煉するだけで、師父に面倒を見られていないと思うことでした。私は確かにこのような念を持っていて、師父に面倒を見ていただいてもいなくても、私はひたすら修めると思っていました。
このような観念の働きの下、修煉するなかで、あまり多く悟ることができない時、自分が師父からとても遠く離れているという情が生まれてきました。この観念の構想は、目に見えて感じ取れることをもって、師父が自分の面倒をみてくださっている、さもないと自分は師父に面倒を見ていただいてない、あるいは自分があまりにも劣っていると感じることでした。自惚れている時は、この観念は出て来ないし、感じ取ることができません。
修煉において、私たちはこれらの法に基づかない観念をはっきり分析できてこそ、それらを解体できます。これらの法に基づいていない微かな観念を無視しないでください。私達には多くの方面において、これらの観念が生まれ、それに左右されているかもしれません。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』